彥山
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
豐前國彥山(英彦山)は四海屈指の靈場にして、九州軍記に「儈房三千、彦山大權現と崇め奉る。本地西天竺の靈神なり。崇神天皇の御宇に當つて、天竺の國より五つの劔を東へ向けて抛げ給ひ、吾が緣の有る方に留るべしと誓ひ給ふにい一には紀伊國室の熊野に留り、一は下野國日光山に留り、一は出羽羽黑山に留り、一は淡路國乙鶴羽峰に留り、今一は豐前の彦山に留る」と傳ふ。又豐薩軍記に「彥山來由、井に僧徒警詞の事。玆に彥山と申けるは九州第一の大山にて、豐後、豐前、筑前、三ヶ國に跨リ、山中の僧坊三千八百坊あり。彦山大權現と崇め奉るは、天地開圖の始め、三尺六寸の八角水精石の上に降靈まします。三社は伊奘〓、伊奘册、天忍骨の三神。本地は彌陀、釋迦、觀音の應化なり。一說に天竺摩訶陀國より彥坂三大夫飛び來り、第一彦山に示机、第二伊豫圓石槌山、其の後紀伊國室郡、下野國日光山、出羽國羽黒山に示現し給ふ。飛び來らせ給ふ時は、其の形八角の水精にて、御長三尺餘りに見え給ふと云ひ傳へし。其の後、人皇二十七代權體天皇の御宇に、大唐より善正和尙と云へる僧來朝ありて、此の山を草創ありしか共、未だ佛法流通の時到らずして、頓て歸唐なりにける。爾後四十二代文武天皇の御宇、慶雲二乙巳年、役行者·彥山の峰を開き給ひしに、幅現の靈あらはれ給ひ、夫より以來、靈驗九州に普ねく、萬人步を運ぶ獵山とは成りぬ。四十四代元正天皇の御字に、當山の中興開山法蓮上人は、般若岩にて勤行し、如意珠を感得し給ひ、種々の神異を示されける。時に養老四年度申、異賊襲ひ來りて、日隅の兩州大に亂れたりしかば、天皇大に驚かせ給ひ、佛神擁護の力に預らずんば也とて、字佐宮にて降伏祈念を行はれ、豐前の領主字努首男人等に勅宣ありて軍將とし、字佐の禰宜辛島勝波豆米を御使とし、神輿を新に莊嚴して護神となし、日子權現、及び法蓮同侶人聞華嚴覺滿大能等の高僧、各々神策を運らされたりしかば、官軍の威雄痩烈として、勢ひ當りがたく、異國一戰敗走し、總に討ち殘されて歸りにければ、君も安全に、國土も饒かに治り、萬民快樂の化に屬す。其より法蓮上人·高原嶽(彥山にあり)と云けるにて、目想觀を修し給ひけるに、紫雲光權として嶺よリ起り、太宰府まで覆ひ、山野を照しかゞやかす。〓民是を府に告げ、終に上聞に達せしかば、同五年六月詔して招請せらる。實使の來着ある處を公原と名づけ、溫室を點して官使を浴せしむ。其の地を名づけて湯迫と云ふ。上人·官使に隨ひて都に上らせ給ひぬれば、叡慮殊にうるはしく、卽時に大和尙の位を賜はり、猶ほ詔して『沙門法蓮、心·禪杖に住し、行·法梁に居リ、最も醫術に精しく民の苦を濟治す。善い哉、若の如き人何ぞ衰貫せざらん』とて、其の僧三等以上親に字佐君の姓を賜ひけるとなり。第五十二代嵯峨天皇の御宇に當て、始めて勅願所となり、四方七里の神領守護不入、十方檀那の宣旨これ有り。禁裏へ牛王寶印、井に卷數御守等、年々今に獻上す(彥山舊記に曰く『嵯峨天皇弘仁十年、法蓮齡三百餘歲にて參內す』と)。夫の兩部習合神事の行儀たる事、十方檀那、天下國家の轉祈として、年中四百八十の講祭あり」と。又彥山綠起に「太古天津日子忍骨尊の靈·蒼鷹に化して、此の嶺に降止し、水晶石に影向し、本體を顯はし給ふ、之を高住宮と申す。役行者小角·高住宮の舊跡を求めて登山の時、更に少年の姿を現して、行者の大願を讚歎し給ふ、行者云々の言によりて、忽ち夜叉の形に變じ、大身忿怒の相を現はし給ふ。則ち今の豐前坊、大行夜又、飛行夜叉の尊體なり。然りしよリ靈驗·日夜にあらはる。時に或は山岳を鳴動し、巖軽を辟易す、故に世の人之を天狗倒しと云ふ」と。又開山善法師の事は、豐鐘善鳴錄に「釋善正は魏國の人也。久しく弘法を念ひ、風然海を航して、筑の宰府に達す。卽ち本朝繼體帝の二十五年辛亥也。日子山の欝翠にして奇異なるを瞻、以つて是れ聖賢神仙の栖遲する所と爲し、遂に杖謁して躋る焉。後に一雄夫の至るあり、卽ち藤山恒雄也。初めて怪の甚しきを観、亟に來り稍や狎る。遂に魏和の語·明かなるを得、正の化に服し、正に乞ひて一精舍を營む。正乃ち齎す所の佛像を以つて之を安ず。 扁して靈山寺と曰ふ」と見え、一書には「善正·初め御 笠縣古賀庄に富止し、日子山に入る。豐後の人藤山恒雄·之が弟子となり、山の二祖をぐぐ用明帝の時、救を奉じて參內入宮したる豊國法師は、卽ち恒雄」とぞ。彥山靈驗記には「弘仁年中、法蓮·中興して七里の山谷を結界す」と述ぶ。其の後、碩德增慶上人は、眞慶に事へ、顯密の奥義を究め、中興法蓮の遺法を本として恢弘す。村上帝·金翻の法服を賜はり、寛弘三年東方に向ひて座化す(圖志)と云ふ。多くの僧兵を蓄へ、北九州に雄視せし事は、既に本朝世紀に「藤原長房·寛治六年、太宰大貳を兼ね、在任の間、嘉保元年、彦山衆徒·訟訴の事あり、大いに以つて蜂起す。初め赴任の時、相從ふ所の郎從·幾もあらず、然る間、事倉卒に成敗の間、爲す所を知らず、逐電上洛、都督を辭す所也。世以つて半大貳と稱す」と。以つてその勢力を知るべし。下つて海東諸國記に「俊幸·戊子年(文明二年)使を遣して來朝し、書して豐前州彥山座主黑川院藤原朝臣俊幸と稱す。宗貞國の請を以つて接待す。大友殿の管下、彥山に居り武才あり」と載せたり。異稱日本傳、註して云ふ「今按ずるに、彦山は豐前國田川郡に在りて、豐前、豐後、筑前の三國に蟠根す。和歌に誅ずる所の彥高峰·是れ也。山に神あり、彦山大幅現と名づく、西國人甚だ〓す。寺を靈仙寺と號〓.其の革創舊し矣。役小角·久しく之に居る。後伏見天皇の皇子助有法親王の住山に至りて座主と稱し、以つて諸儈を続ぶ。戊子は應仁二年、賴有が座主職の時也、藤原俊幸は、蓋し其の未だ出家せざる時の姓名か。亦設けて之を爲す乎。天下方に亂る、故に山僧と雖も、往往にして武才あり、以つて不虞を防ぐ」と。その滅亡は大友記に「豐前の國彦山へ、〓田鎭忠に三千の人數を相添へ遺はさる。山中三千の山伏·身命を捨て防ぐと雖も、死生を知らざる溢れもの、弓鐵砲て揃へ、貴め入りければ、山中の衆徒·山々谷々へ迯散りけり。鎭忠·上宮まで賣めのぼり、字ものこさず灰煙となす。掛りける處に山伏二人·高聲によばはり、大友七代迄の怨靈とならんと罵詈して腹かき切り、猛火の中に飛び入つてげり。扨て又萬壽寺破却の承りは、橋本正竹にて、彼の寺へ行向ひ、山門より火をかくる時しも、辻風烈しく吹きかけて、會臨、本堂、常青堂に當へ付きければ、寺中須臾の間に医儘となつて、佛像、經論、聖〓、忽に寂滅の煙と立ちのぼる。東堂、四堂は徒跣にて、行末をも定めず迷ひ出で給ふ。實とに希代不思議の悪道かなと、眉を顰めぬ者ぞなき。抑も彼の萬壽寺と申すは、由利若大臣(神子禪師)御建立の靈地として、往古より今まで相續きたる三百餘町の寺領を召上げられ、方八町の寺內に三百餘箇所の大加藍、いらかを並べ建てたるを、只一片の煙となす」と。その後、彥山記略に「慶長五年、當山老僧·伏見城に於いて、東照神君に訟へ奉る見より先き天正十五年、舜有座主遷化して嗣子無し)。此の時、先規の如く十方旦那、守護不入と爲すべきの由、台命を蒙る也。慶長六年、細川忠興·豐前國主と爲り、當山を尊敬して、外護の旦那と爲り、自ら日野家三男を請ひて猶子と爲し、以つて當山座主ををしが。是を忠有座主と號す。有の女子を以つて之に娶す。忠興·田河郡落合村を以つて、富山に寄附し、しかのみならず一山諸役人の祿を惣べて二千石餘と爲す。又天正燒失己後、一山佛神·皆假殿に在り、之に因り諸室を造營し、漸く舊慣に復す。忠有座主に又男子なし、因りて元彦九年是を有清座主と號す、惟僧正に任じ、忠有の女子を以つて之に娶す」と。彦山座主(千二百石)は、維新以來高子穗氏(宣鷹)と稱し、名家なるにより男爵を賜十〇タカチホ條參照。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)