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弓張

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

受大生 月に亂星と書いたものはない。見聞諸家教、羽獵原合戰記には、月星は千葉介と記してある。但し見聞諸家紋には、九曜の形を畫きて月星と題し、千葉系圖には、新月卽ち弓張月に一個の星を添へてある。いづれにしても亂星といふべきものは見えない。元來千葉氏の一門は、妙見信仰、卽ち星辰の信仰から、この紋章を用ゐたものであるから、かく多數の星が畫かれてあつたものがあるとすると、それは事ろ北辰と解すべきものであるかと思はれる」と12關東千葉雜載その他、印旛郡龍腹寺實塔造立の記に「大檀那平胤直.法名常珊並に平胤賢、沙彌了心。圓城寺肥前守胤定。周東孫九郞。渡邊次郞」などの名あり。また小金本土寺過去帳に「千葉佐宣胤妙宣、五郞殿、享德四乙亥八月、十三オ」とo下りて大蛇村文殊寺佛籠中に「天文十四年乙巳、原大藏丞胤安の祖、母妙孝禪定尼」と。又木華鬘に刺して「天文十六年、大檀郡平胤富」20胤富は千葉十八代にして、邦胤の父也。胤安は其の長臣なり(佐倉風土記)。また永祿六年諸役人付に「關東衆·千葉介胤富(下總)」と又小金本土寺過去帳に「千葉介邦胤·鍬田孫五郞狂亂し、額をきりつけ、天正第十三乙西五月、廿九才逝去」と。また井田系圖に「秩父太郞大夫重弘の女(千葉介太夫常胤室、圓壽理體尼)」と。チチブ條を見よ。又翁草、鎌倉時代武士の所領として「一萬七千町、下總の內、千葉助常胤」とあれど、黴證なし。又香取造營記に「一の鳥居、作料米百石、印東莊地頭千葉介賴胤」と。また後世、佐倉の人·千葉新當齋(右門)劔を以つて著はる。13支族千葉家の庶流は其の數·甚だ多Lo殊に胤正の弟師常は相馬氏、胤盛は武石氏、胤僧は須賀氏、胤道は國分氏、胤頼は東氏にして最も著はる。其の他、小高、君島、千田、有原、粟飯原、金原、武射、椎名、匝瑳、飯高、白井、海上、堺.埴生、鏑木、白井等、擧げて數へ難Lo各其の條を見よ。14奥州の千葉氏般若院系圖に「成胤(千葉介、小太郞) -胤綱-時胤-賴胤-胤宗-氏胤-滿氏-兼胤(法名柏山)、弟胤泰(奧州)-胤枝(法名安叟常泰)-孝胤(常輝)-勝胤」to又胤枝の弟に基胤を擧ぐ。その他、東條を見よ。又餘目〓記に「千葉殿へは内封に候。千葉介殿、〓奪0謹上大崎殿、平治胤」とこは萬四家臣千葉氏か。又奥州葛西實記に「承久兵亂の後、千葉五郞兵衞晴胤の男賴胤、品有りて葛西家へ預けられ、葛西家の聟となり、東山、長坂、伊澤、百岡、江刺、本吉、濱田、一期、其の外、數所を知行す。これに依りて、嫡男千葉長坂太郞、百岡次郞、江刺三郞、本吉四郞、濱田五郞、一關六郞云々。是れ葛西家中にて、千葉氏の多きは、右の六人の子孫の分家也とぞ。評に曰ふ、千葉介賴胤、御預けに成りたる者を聟にする、いぶかし。たとへ聟に成りても、是れまでの一族に、いか計り戰功の者も有るべきなれば、數个所宛行はるべきにあらず。葛四は、本千葉なれば、本家の分地と見えたり。異本に、鎌倉殿·賴胤を奥羽の探題に補せられ、長坂、百岡の兩城に下リ居り、賴胤滅亡の後、六人の子息、葛西の家中となるといへり」(地名辭書)。磐井郡長坂邑に千葉介賴胤の城跡あり。陸前より陸中に亘りて、千葉氏頗る多し。今觀號聞老志、封内風土記等に據るに、登米郡「新井田壘は新田村に在り、千葉掃部·これに居る」to又「上沼壘は葛四家臣千葉豐後の居館也。豐後は後に栗原郡若新山館に在りて、大崎と屢々兵を接す」とaまた桃生郡「柳津邑の古疊は千葉太郞左衞門の居る所」と傳へ、また「女川邑卵木舘は千葉雅樂助の居る所」と云ひ、また本吉郡「志津川邑朝日舘は葛四家臣千葉大膳居りし地、」「歌津邑稻淵濱牛館は千葉刑部據る」とあり。次に氣仙郡「矢作邑鶴崎城には、正和中、葛四家臣千葉廣胤あり。その裔、天正中千葉玄蕃、その子因幡·據る」と見え、また「米崎量は葛西家の族臣千葉安房廣綱(廣朝)の居城にして、安房は晴信に叛す」と次に磐井郡の「薄衣邑米倉舘は葛西家族臣千葉甲斐胤次」の居城にして「釘子邑金鶴城は、葛四家臣千葉遠江守兼義の所居」と。又「松川村白米舘には千葉民部胤好居る。この入·桃生郡にて伊達政宗に殺さる」とまた「鹿折邑忍舘は、同家臣千葉信濃、」「山目邑小石名澤館は、千葉下野〓宗(晴常)の居所」なりと云ふ。又「金澤飯倉舘は千葉四耶兵衞參常居所」にして、泰常は寺崎彥九郞〓次末孫と。テラザキ條を見よ。又葛西記に千葉五郞右衞門等見ゆ。その他、長坂、新渡部、乙部、百円、江刺、岩谷堂、淺井、本吉、濱田、一關、柏山、那次川等の條を見よ。又後世、氣仙郡氣仙邑の人·千葉思左衞門の子周作成政は江戶に出でゝ劔客とな300その名甚だ高し。15田村の千葉氏田村郡霧館(中妻村四方)は、田村家臣千葉紀伊守の居館なりと16武藏の千葉氏第八、第九兩項參照。また葛飾郡にあり、新編風土記に「千葉氏(東小松川村)、千葉介太郎宗胤の家臣秋元刑部左衞門尉胤次の末孫にて、後年村民となり、當所へ土着し、善通寺を創立し、家傳の佛像、並に親鸞筆の名號を寄附せし事、寺の緣起に載せたれど、舊記家系等を失ひたれば、其の詳なる事は知らず。又兵右衞門が同氏忠左衞門とて、隣村四小松川村の名主を勤むれど是れも證となすべき者なし」と。又足立郡大田窪邑(晴常)の居所」なりと云の名族に存し、下總千葉氏の一族と云ふ。17駿河の千葉氏當國に千葉六郎なる人ありしと云ふ。18藤原北家阿野實顯の庶流にして、季佐の時より、千葉を稱すと云ふ。家紋唐鳩酸草、連翹澤、八代、笹龍騰。「兵部季佐-兵部季珍(老之助)-季貞」なり。19大和の千葉氏十津川郷鎗役由緒家筋書に「小山手村千葉彈正、檻尾崎村庄屋千葉藤吉、出谷村庄屋千葉澤右衞門、上湯川村庄屋千葉政右衞門」等見ゆ。20紀伊の千葉氏鎌倉時代、千葉大輔亂成と云ふものあり、その子當國に來ると。敷屋條を見よ。21阿波の千葉氏美馬郡郡里に轟宮あり天正中、兵燹に罹り、未だ復舊せずと雖結構頗る大、連松繁茂す。安樂寺は舊名眞如寺、天台〓を學ぶ。建長十一年、卿常重の重造なり。常重·初めは千葉彥太と稱す、土總分平常胤の裔、常〓の子也。實治元年、平時賴·千葉氏を減す、常重乃ち來りて源長〓に寓し、釋服して僧と爲リ、此に居りて親鸞の〓を奉じ、子孫相關ぐ。源長房·甞つて歲俸十三貫を捨す。子院二十五所、七十三寺隷す(阿波 チハチハ續風土記に千葉氏は那珂郡屋形原に據りしと云ふ。25肥前の千葉氏當國屈指の大族にして下總千葉と同宗たり。殊に南北朝時代、宮方に屬して勤王し、應永に至りても、菊池、大村等と共に、南朝の囘復を謀りしが爲に、最も名あり。故に今數項に分つて述ぶべし。26起源北尼戰志·傳へ云ふ「右大將の時、千葉介常胤は、鎭四の監職にて、關東の所領の上、肥前國小城郡晴氣保を賜はりしより、子孫代々當郡の地頭となり병常胤六代の孫賴胤·去ぬる文永年中、蒙古武備として、當國へ下りてありけるが、同十一年の冬、蒙古と打戰ひて統を被り、愈えずして翌年三十七オにて失せぬ、」と。又風土記纂註に「蒙古之役、千葉賴胤·創を被り、明年領邑肥前の小城に卒す」と。後南北朝の頃、千葉刑部大輔胤貞·上洛して吉野へ參り、征西將軍懷良親王に供奉して當國に下ると、鎌倉大草紙に見えたり、第五項を見よ。其の子孫二流に分れ、一は小城祇園山に據り、一は晴氣に居ると云ふ。チハ天然されど字佐八幡正中の文書に「肥前國小城郡東方所課の事、右地頭千葉太郞胤貞·對捍云々」と載せ、又前述の如き傳へもあり、猶ほ宗像軍記、多々羅濱合戰條に「搦手には千葉萬千代を大將として、大村肥前々司、松浦神田の一族、都合其の勢五千勢騎」と載せ、敗戰後、「原田、千葉も、深山國谷に身を隱す」と見ゆ。又建武四年に「宮方千葉云々」toこれ等に據りて考ふれば、嫡流の移住は南北朝ならんも、庶流の人早く當國に在りしが如し。27氏人鎭四要略、延文四年七月條に「宮方千葉刑部大輔、武家方千葉右京大夫」と載せたり。太平記卷三十三に「宮方千葉刑部大輔、武家方同右京大輔」とあるに據りしならん。諸本·刑部大輔を胤貞に作る。また要略、貞治元年(正平十六年)條に「宮方·高木、原田、千葉、大村」と又正平二十三年條に「平戶、千葉、大천など多く見え、河上社文書、曆應三年正月に平胤泰あり。大體南北朝時代は宮方なりき。その後、廳永記に千葉氏見え、要略に「應永三年、千葉、大村以下、少貳、菊池に天然志)と。22備後の千葉氏先祖子葉豐後·關東より來りて御調郡架原邑に居ると。又藝藩通志に「丸山城二所。峠山。並に丸門田村にあり。丸山城、一は上里丹後、11上里周防、四世居守す。峠山は守者詳ならず。或書に、千葉豐後の所居といへり。按ずるに、今田村に、豐後が裔ありて、其の家·傳へいふ、先祖、栗原村に居りて、其の墓は、同村門田組にありと。されば、他人誤りて、門田村に城居すとおもへるも、知るべからず、」と。子孫今田條を見よ。23豐前の千葉氏室町の初期、千葉賴胤、同高胤等ありて、仲津郡、京都郡等に據る。豐前志に「障子嶽城は、建武三年足利駿河守統氏の築く所、應安元年、千葉上總分光胤·統氏を討ちて、自ら居る。應永六年、千葉高胤亡びて、大内の抱城となる」증24筑前の千葉氏次項を參照せよ。應安二年八月十八日の宗像文書に「筑前國宗像東〓の內、曲村の地頭職、兼公文職、千葉常陸介平胤連、重代相傳の本領たるに依り、含弟宗果上座に讓與す」と。又臭同す」と云ひ、四年四月條に「少貳、菊池、千里、大村·叛逆を發し、兵を催し、城を修む」と。菊池、少貳、大村等の條を見よ。下りて永享六年に「肥前國郡伯、千葉、高木、龍造寺」と0又嘉吉元年等に見え、文安二年秋八月には「千葉介胤鎭·其の弟胤絡を追討し、同月十七日、胤絡を討殺し了る。其の所封を併せ、以つて三郡を領知す。謂ふ所の三郡とは、小城、佐嘉、杵島·是れ也」と又河上社文書、文安元年卯月十四日に平胤組、中村文書、長祿三年に千葉元胤本領安堵狀あり。その後、文正元年、大村家徳·千葉介と相對抗し、文明元年六月中旬には、千葉介〓胤·多くの兵を引率して大村氏を伐ち、敗れて死す。要略に「祇園恒例の祭を怠廢して出陣せし故か」と云ひ、鎭西志には「千葉別駕〓胤云々」とあり。大村條參照。文明八年には、千葉胤朝·大村氏の釆地を略し、家臣)置き其の封疆を守る。河上社文書、文明八年三月三日に「平胤盛、」十二年六月十九日に胤朝·見ゆ。次いで明應二年、司馬少二政責·松浦黨を討つ。千葉氏之に從ふ。龍造家隆信譜に「豐前守胤家·千葉胤盛に從ひ筑前に赴く。傳に曰ふ、明應六年云々、千葉胤盛合戰、河上千葉氏·軍敗れ筑前に奔る」to要略、同八年に千葉新介·大内義興に謁し興常と名のる。また河上淀姫社文書、明應六年三月廿七日に平興常禁制、同年正月廿三日に平胤盛、陰徳記に千葉胤盛、又肥陽軍記等に多く見ゆ。次いで文亀二年、千葉胤治(胤賣の子)·小城に起り、晴氣城を修し、多久、平井、後藤、中村、須古、白石、大町、井本、前田、田中等、舊好の徒を帥ゆと。永正四年に至り、千葉興胤(始め興常)·屋形號を賜ひ、千葉胤治、胤繁父子入國と0鎭四志には本領に入るとあり。同五年、將軍義尹上洛す、千葉介興胤·從ふとo同七年春三月十三日、肥前國守護代千葉介製胤、同嫡子喜胤、東彈正少弼尙盛と相談合し、同姓胤治を夜討して、これを殺す。窯田胤俊·其の討手と爲り、胤治の一屬·鑰尼刑部少輔、佐留志盛弘等、担んで死す。同八年春二月、千葉喜胤·東尙盛と同陣して杵島郡に至り、大村氏の軍を破りて、杵島、藤津の地を略し、郡に家臣を置く。郡中·千葉代と稱すと。小鹿島、中村等の文書に「永正十一年十一月、千葉興常·杵島郡云々」の事あり。永正十二年、有馬、大村氏·千葉索と藤津に戰ふ。十四年、有馬主馬·千葉喜胤の衆と小城に於いて挑戰云々。爾來屢々爭ひ、天文九年には「有馬晴純·千葉喜胤と封彊を爭ひ、干戈を動かす年あり。杵島郡々曹·有馬に屢して、千葉勢を擴斥す。これより後杵島郡以四を稱して有馬代と曰ふ」と。かくて「天文十一年春三月廿九日、肥前牧千葉別駕平喜胤卒す、年四十四。少貳氏胤·其の家を相續す。これより前、河上社文書、天文二年三年等に「平興常、胤勝」見ゆ。又天文十二年、千葉介胤勝·松浦表に發向すと。又龍造寺隆信譜に「千葉胤連」云々。陰德太平記に「天文十四年、千葉云々、」又「永祿二年正月、千葉胤連·肥前小城の郡を全く領し、龍造寺隆信に一味す」と。モの後全く龍造寺氏に併せらる。系圖此の流の系圖は詳かならざれど千葉系圓に「頼胤-宗胤(千葉太郞、新介、大陽守、建武二年·三井寺にて戰死28司馬少二政責·松浦黨 す)-胤貞(大隅守、南朝に属し、征西將軍に從ひて九州に赴く)胤高-高胤胤房小五里千千八胤平胤鎭千胤連千万葉陸分要求書宗宗上座九州住Ⅳ曾東守光胤-胤眞-胤親胤房総督守-胤-胤朝 胤 〓 - 胤 治千法師胤盛ダ言守-胤繁乙法師某胤勝|經胤次郎興常-善胤某百里盛胤盛re尾子-元胤〓胤胤賴(實は太宰少貳資元の三男、善胤·養つて子と爲す)-胤誠-勝利(大和守) -長良(刑部大輔)-家良(大炊助)-常氏(對馬守)」と見ゆ。又神代氏所藏千葉系圖に「常長(千葉介、從五下) -常兼-常繁-常胤-胤將-成胤(千葉介)-胤綱(千葉介)千里次郎奉胤胤高小太郎時胤-賴胤-宗胤-胤貞高胤介介千里太郎同太郞十五錢胤宗介胤重同五郞貞胤介胤房童三-平平孫太郎顯胤雅太郞胤泰式は小城に據ると云へば、晴氣は武家方千葉氏の據りし地か。但し其の後、系統混清し、祇園より晴氣を起し、又晴氣より祇園家を嗣げるあり。30祇園家その世代·明白を缺くものあれど、「胤鎭、元胤(寛正五十卒)、〓胤(大村と戰ひて死)、胤朝(胤權の子)、胤資(少貳政資の第)、胤盛(胤朝の子、明應、筑前に走る)、興胤(もと興常、胤盛の子)、喜胤(嘉胤とも、善胤ともあり)、胤賴(氏嵐少貳賣元三男、冬尙弟)、胤誠」ならんか。胤鎭·三郡を領し、又此の家·屢々、屋形號を賜ふを思へば、嫡家の地位にありしものと考へらる。海東諸國記に「千葉殿。己卯年、使を遣はして來朝す。居は小城に有り、北·博多を距る十五里。民居一千二百餘戶、正兵五百餘。書して肥前州小城千葉介元胤と稱す。歲に一船を遣はすを約す」と見ゆるも此の氏也。胤頼に至り、永祿二年、龍造寺氏の殺す所と爲り、少貳氏と共に家亡ぶ。肥陽軍記に「天文十四年、馬場賴周·龍造寺の諸人を討取り、連に小城表に出張り、千葉胤頼に會して、晴氣の城主千葉胤連を胤基-經胤男:乙法師千法師-胤鎭胤基-經胤九郞左男: -次郞左司乙法師胤盛是國子皇千法師胤繼四次第-胤鎭元胤品舞子皇〓胤胤治:鼠朝-胤貞胤繁島野子京興常一胤勝●風馬切妻子喜胤-天法師-仲法師客用第二人胤賴大宰少貳實元三男、壁子-胤誠此の系圖は採るべき點多きも、父子兄弟の系線·普通系圓と異なり、注意せよ。29分立前述の如く、肥前千葉氏は分裂して、祇園(小城)、晴氣の兩家と爲る。その次第、嫡庶、共に分明ならざれど、南北朝·既に宮方と武家方とに別るゝを思へば、或は當時よりの事か。内、晴氣は鎌倉以來、千葉氏の領土と云ひ、胤貞-胤-千法師乙法師|經胤胤盛逐ひ出し、胤頼を移し、又紙圓山を修理しけり。是れは新少貳冬尙を移さんが爲なり。修理の事未だ終らざるに、龍造寺入道·筑後より歸國し、胤連に牒し合せ、祇園山へと寄せけるに、輕周の子六郞政員と、森川の邊に合戦あり。政員·大外ヶ里に討死し、龍造寺勢·進みて祇園山に押寄す」と次項を見よ。31晴氣家晴氣保に據りし千葉氏也。當保の事は宗像條參照。前述、胤鎭の弟胤紹(胤繼)のありし地にして、此の人殺されて後、永く振はず。されど其の子胤朝は、〓胤の戰死後、祇園家を嗣ぎ、弟胤將(もと僧)に家を嗣がしむ。しかるに文明十八年十月、胤將·兄胤朝を殺し、その子胤盛を筑前に走らせ、少貳政資の弟胤資を立つ。後勢を失ひ、他國にありしが、胤資の子胤治·再び晴氣城を修し、その子胤繁と據りしも、又祇園の爲に亡ぼされ、その後、胤勝·當家を立つ、その子胤連なり。野史に「千葉胤連·世々晴氣に居る。祖父胤資、實は小貳政資の弟也。明應六年、政資·大内氏と戰ひ敗れ、脫走して胤資に愚る。大内氏の兵來り圍む、急なり。四月、胤資·遂に戰死し、政責·多久梶峯城に奔る。胤連の父を胤勝と曰ふ。其の嫡家祇園山に居る者と矛權す。天文十四年、馬場賴周·少貳冬尙の命に託し、千葉胤頼と相謀リ、胤連を逐ひ、晴氣の邑を奪ふ。胤連出でゝ走る。已にして胤連·頼周を襲ひて之を殺す。十六年、胤連·龍造寺の族と城原城を攻む、冬尙防禦する能はずして、筑後に走る。是の時、胤連·松尾城に據る。族長祇園胤賴は中尾に城き、之に據る。勢を競ひ相抗す。永綠二年正月、胤運·龍造寺隆信の援兵と晴氣城を攻む。胤頼戰死し、城陷る。胤連·小城郡を併食するを得たり。有馬氏來攻、又龍造寺の援に因りて擊退す。千葉·遂に龍造寺の臣下に歸す」(地名辭書)と。淀姫社水繰十三年棟札に「大宮司千葉別駕平胤連」とあり。32肥前千葉雜載本化佛祖統紀に「日鮎は、千葉胤貞の子、博學雄辯を以つて聞ゆる胤貞の肥前守護に補せらるゝや、日點·光勝寺を晴氣の松尾山に建つ。鐵四日宗·これより始まる」と。又後藤家事蹟に「十代八那幸明は氏明の子、妻は千葉氏」と又筑後長野系圖に「久盛の女は千葉上總介光種妻」と見ゆ。33藤原姓高木氏族一に肥前千葉氏は、高木、菊池と同族と云ふものあり。34薩摩の千葉氏建久の圖田帳に「和泉郡御庄寄郡内、沒官御領六百十町二段、内三百七十八町三段·地頭千葉介。高城郡温田浦十八町、沒官御領·地頭千葉介。公領百四十二町內、沒官御領·地頭千葉香寺〓別府、公領四十二町七段、沒官御領·地頭千葉介。入來院九十二町二段、内沒官御領·地頭千葉介。郡答院百十二町.内沒官御領·地頭千葉介。瓶島四十町內、沒官御領千葉介」と。而して出水郡山門院郡司平種國は、千葉介常胤の後裔と云ふ。その子權別當國秀、その子秀忠なりと。山門條を見よ。35雜載その他、德川時代、遠山藩重臣、高概永井藩重臣、津和野龜井藩重臣等に存し、又參考諸家系圖に、千葉右源太等見ゆ。又正親町三條家諸大夫に千葉氏。江戶の儒者に千葉茂右衞門芸閣。但馬栗山邑の勤王家千葉都太郞は田路鼎齋の子、正五位を贈らる。肥前江藤氏は千葉族なりと。又江戶の國學者に千葉直胤。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

系図・系譜

関連論文

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