建部(2)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
2紀伊の建部元慶三年十二月紀に紀伊國の浪人·當麻眞人岑吉、建部今雄を射殺す」など見ゆ。23阿波の建部板野郡田上〓延喜二年戶籍に「建部國安賣·外五人。建部乙刀自賣·外三人。建部方機賣。建部萬繼賣。建部乙主·外四人」等見えたり。而して美馬郡に建神社あり、此の部民の奉齋したる社なるべし。尊の御子息長田別命は「阿波君等の祖」とあれば、此の建部の伴造は此の命の後と思はる。24讃岐の建部仁和元年十二月紀に讚岐國鵜足郡人建部秋雄」なる者見ゆ。又寛弘元年大內郡の戶籍に「建部弘刀自」なる者あり。25筑前の建部萬葉集卷五に「那珂郡伊知島郷簑島人建部牛麻呂」を載せ、また川邊里戶籍に「建部與曾甫賣、建部多治麻賣」等十九人の名を列す。26豐前の建部正倉院文書、丁里戸籍に「建部赤賣」なる者見ゆ。27肥後の建部第四十項建部公を參照せよ。熊本市東北部の字に竹部あり。古くは建部に作ると云ふ。28大隅の建部第四十五項建部宿禰、第五十項建部氏を見よ。29薩摩の建部天平八年の薩摩郡正稅帳に「主帳先位建部神島」なる者を載せたリ。30建部君近江國の大族にして、建部の伴造中、最も有力なりし氏たりき、倭建尊の御子稲依別王より出づ。古事記に一種依別王は、是れ犬上君、建部君、凡そ二族の始祖也」と云ひ、また〓行紀に精依別王は、是れ犬上君、武部君等の祖」と。また成務本紀に「稻依別王は犬上君、武部君等の祖」、など見えたり。蓋し此の氏は初め地名を負ひて犬上君と云ひしを、後に犬上と建部との二氏に分れたるが如Lo古くは皆犬上君とあればなり。姓氏錄には、右京皇別に收め、「建部公。大上朝臣と同祖。日本武尊の後也。續日本紀建部多治に合す」と載せたり。猶ほ第九項、第三十二項等參照。31栗本の建部公栗本郡建部の伴造家にして、天平神護年間、「志賀園大穀建部公伊賀麻呂」なる者·朝臣姓を賜ふ。此の氏は前項犬上の建部君の分流か。或は第三十三項、近江建部君の後なるか。32犬上建部君第三十項の建部君に同じ犬上は其の居住の地名とも、又は其宗家の氏名を冠したりとも見るを得べし。孝線紀卽位前紀に「輕皇子(孝德天皇)·固辭するを得ずして、壇に昇りて詐に卽き給ふ。時に大伴長德速は、金靱を帶びて壇の右に立ち、犬上健部君は金靱を帶びて壇の左に立つ。百官、臣連、國造、伴造、百八十部、羅列して匝拜す」と見えたり。33 (近江)建部君これも倭建尊の御裔にして、皇孫本紀、成務帝條に「稚武王は、近江建部君の祖」と見ゆ。但し稚武王は紀記二典に見えず。第九項、第三十項以下三項參照。34美濃の建部君美濃國建部の伴造家な、リ。春部里戶籍に「建部君墓賣」なる者見ゆ。第十項參照。35 (丹羽)建部君日本武尊の後裔にして猶ほ第九項、第三丁里戸籍に皇孫本紀に「武田王は、尾張丹羽建部君の祖」と見ゆ。但し此の武田王は記紀に見えずして、本紀にのみ倭武尊の御子とせい。丹羽建部の伴造なり。36伊勢の建部君これも倭建尊の御裔にと、皇孫本紀に「日本武尊の子稚武彥王命は、尾津君、揮田君、武部君等の祖」二年。伊勢建部の伴造なりしか。第二項、第三項參照。又鈴鹿郡に建部塜ありて、日本武尊の御陵と云ひ、塜墳數所存す。蓋し此の建部氏の古墓たらんか。但し寬平熱田綠起に、長瀬に薨崩の事を記せば、尊に由〓ある地にして、之を日本武尊陵と稱するも、故なきに非ず。五鈴遺響に「長世〓の曠野の中に陸墓あり。俗に多氣比墓、又武備塚と云ふは、建部の訛なるべし」と。近世建部綾足·私に石を建て、御陵と云ふ(地名辭書)。37 (阿努)建部君これも伊勢の豪族にして安濃郡なる建部の伴造なり(第二項、第三四、前項參照)。天孫本紀に「物部膽咋宿禰(十市根の子)は云々、又阿努建部君の祖·太玉が女鳴姫を妾と爲して一兒を生む」と見ゆ。膽昨は仲哀紀に見え、天孫本紀に成務朝の人となすが故に、太玉も亦仲良帝以後の人となすべからず。而して武尊の御子の內に、其の名の見えざるを思へば、こは武尊の裔とはなし難Lo 38伊賀の健部君垂仁帝の御裔にして、伊賀建部の伴造、伊賀國造家の庶流なり。延曆三年十一月紀に「武藏介從五位上建部朝臣人上等言ふ、臣等が始祖·息連別皇子は、伊賀國阿保村に就きて居る焉。遠明日香朝廷(尤恭朝ににびて、皇子四世の孫·須珍都斗王に詔して、地に由り、阿保君の姓を錫ふ。其の胤子·意保賀斯は武藝超倫にして、後代に示すに足れり、是を以つて、長谷旦倉朝廷(雄略朝)、改めて健部公を賜ふ。(こは建部の伴遺たるを名に負へるにて、此の記事は後世の想像說ならん)。是れ旌に庸思意ふに、胙土彝倫に非ず。望み請ふ、本の正名に返り、阿保朝臣の姓を蒙り賜はんと。詔して之を許す。是に於いて人上等に阿保朝臣を賜ひ、健部君黒麻呂等に阿保公を賜ふ」と見ゆ。なほ第四十七項參照。39筑後の建部公仁和元年十二月紀に、「筑後從少目從七位上建部公貞道」なる者見ゆ。40肥後の建部公肥後地方建部の伴造家なりしか。承和十四年三月紀に「肥後國飽田郡人、從三位大藏卿平朝臣高棟の家令·正七位上建部公弟益の男女等五人に、姓を長統朝臣と賜ふ」と載せ、また貞觀三年八月紀に「肥後國飽田郡大領外從七位上建部公員雄に、借に外從五位下を授く」など見えたり。有力なる氏たりし也。第二十七項參照。41建部臣出雲國造の族にして、出雲建部(第二十一項)の伴造家なり。出雲風土記、建部郷の條に、「建部と號くる所以は纒向檜代宮御字(景行)天皇、勅して、朕が御子倭健命の御名を忘れじとて、建部を定め給ふ。爾の時に神門臣古誦を、建部と定め給ふ。卽ち健部臣等、古より今に至りて、猶ほ此處に居る、故に健部と云ふ也」と見ゆる、之なり。神門臣とは出雲國造の庶流なり。即ち知る。建部は多く國造に命じて置かしめ、國造族をして掌らしめしを。氏人は大稅脈給歷名帳に「建部臣文女、戶主建部臣黒猪の口·建部臣香世賣、戶主建部臣多祁、外十四人」、また「波如里建部臣足石·等十四人、漆沼〓深江里建部臣千足·等角形を タケルへタケルへタケルへ三尺八二、建部臣五百島·等五人、出雲〓朝妻里建部臣比女豆女」等、數多見えたり。猶ほ第四十三項參照。42備中の建部臣吉備氏の族か。大稅賑給歷名帳に「賀夜郡華守〓猶見里戶主建部臣大山」なる者見ゆ。此の地方建部(第十九項)の伴造家の裔なり。43建部首これも出雲國建部(第二十一項)の伴造家なるべし。天平十一年の大稅販給歷名帳に「建部首麻呂·等三人」の名をつらねたり。41建部宿禰建部、又は其の伴造の宿禰姓を賜へる者なる事明白なれど、其の出自を明記せる者なし。除目大成抄、長保二年に「駿河大目建部宿禰忠信」、永永六年に「攝津大目建部宿禰久武」、延久元年に「太宰權大監建部宿禰國經」など見え、また類聚符宣抄、萬壽三年三月廿三日の太宰府解に「正六位上行權大典建部宿禰」あり。45大隅の建部宿禰建久圖田帳に「田所散位檢校建部宿禰·在判」と。また久安三年の建部宿禰規助の解狀ありて、「〓寢院南俣は、親助の父故賴親の所領也。而して賴規存生の時、親助に讓與する所也仍りて去る天水三年四月十八日死去の後、處分に任せ、親助總領の刻云々」など見ゆ。猶ほ第五十項を見よ。46建部朝臣日本武尊の御裔にして、建部君の朝臣姓を賜へる者也。天平神護二年、七月紀に「近江國志賀團大殺少初位上建部公伊賀麻呂に姓を朝臣と賜ふ」と見えたり。47伊賀の建部朝臣垂仁帝の御膏にして第三十八項伊賀建部君にて引ける延曆三年十一月紀を見よ。またそれより前、天平賓字八年十月紀に「因幡掾外從五位下健部公人上等十五人に姓を朝臣と賜ふ」と見ゆ。48伊勢の建部氏第二、三、三十六、三十七項等參照。下りて、永保中に建部掃部介あり。桑名郡東方城に據る。又參河古風土記、津城へ籠る士に建部〓大夫·見ゆ。49美作の建部氏第十七項參照。また笠庭寺記に「建部荘河原實速」、玉海治承三年條に「美作國建部莊」後宇多院御領目錄に「建部莊·京極準后領、」久米郡豐樂寺延文三年の膣觀目錄に建部有宗、康正二年造內裏段錢引付に「本莊能登守領作州本莊、」(地理志料)と。50大隅の建部氏第四十五項建部宿禰の族なるべし。建久圖田帳に「福寢郡司建部〓重、」また「(桑東郡武安)宗新太夫建部高清。(曾野郡第子丸)田所建部宗房。權大掾(樣)建部近信。(小河院武元)執行建部〓俊、」等多く見え、而して其の連署に「田所散位建部宿禰在判」とあり。また天承元年九月文書に「稅所檢校建部、權大掾建部」を載す、弟子丸條を見よ。また居世神社文明七年の棟札に「建部宗議」、永正三年神鏡に「建部宗政」見ゆ、池袋條を見よ。51桓武平氏前項氏の後にて、子孫福寢氏と云ふ。されど小松氏家請等によれば、「〓盛の子重盛、その子維盛、その子高清、其の孫清重(法名行四)、建仁三年七月三日、將軍賴家の命を承けて、而寢南俣院の地頭職となる。舅氏建部〓房の姓を冒し、建部と云ふ」と云へど、徵證乏し。その他、數流あり、小松、佐多、■寢等の條を見よ。52近江の建部氏第七、八、九、三十、卅一卅二、丗三、四十六項等を見よ。後世の建部氏は、神崎郡建部庄より起ると云ふ。當庄は永享三年奉書案に「日吉社領近江國建部庄」と、また北野社文明五年文書等に見ゆ。昔建部神社の神領たりし地なりと0氏人は六角義弼家臣に建部釆女正、蒲生氏〓家臣に建部今史等見ゆ。又次項を見よ。一說に云ふ、此等の建部氏は稲依別王十二世の孫·神崎郡少領建部益人の後なりと云ふ。53佐々木氏族また近江の建部氏は佐々木氏の族と云ふ。建部傳記に「佐々木時信の三男山內右衞門尉信詮(金千丸)より出でたり」と見ゆ。その子「備中守義重-治部少輔詮秀(源八郞。神崎郡建部に築き、建部と稱す) -左馬助賴重(源四郞)-源左衞門秀用(源八郞)ト日向守秀昌(源七郞)-大藏大輔秀治(源八郞)-源八郞秀明」にして、家紋·洲濱、中白なり。一族多く幕府に仕ふ。寛政系譜に十二家を載せたり。54建部侯前項族中、最も著はれたるは壽德(高光)の後にして、藩輸譜に丹波守源政長は、內匠頭光重の子、壽德入道が孫也。入道·生國は近江の者、宇多源氏の流、若かりし時兄の敵討つて、其の事世に聞えたれば、織田殿に召仕はる(江州守山にて五百石を領す)。豐臣太閤の世に及びて、若狭國の政務を奉り、小濱の庄に住す。其の後又攝津國の事を奉行して尼崎の城に在り(當時是を郡代と云ひき)。入道さる不敵者なりしかば、軍頼の轉漕、多くは入道に仰せて沙汰せらる。年老い致仕せる後、其の職務を以つて嫡男光重に讓る。關が原の戰の時、光重·大坂の催促に隨ひ、毛利、長曾我部、長東等の人々と、伊賀の國を經て伊勢の國に向ひ、安濃津の城を攻む。富田信濃守知信·散々に戰ひ、味方攻めあぐんで見えし所に、光重が兵·眞先に第二の城に攻め入りて、終に城をぞ降しける。此の時、建部が侍田中甚九郞、一番に城に乘りて、吾が主の轍を立て、光重一番の由を名のる。池田伊豫守秀武が兵續いて攻入ると云々。此の事、關が原誌記と云ふ書に見えたり。其の他の記には見えず。かくて上方の軍、一時に敗れ、天下悉く德川殿に歸し一後、罪ゆるされて本領を安堵す。光重本領安堵の事、思ふに光重が後妻は池田輝政の養女なれば、飯比方歎き申されし故に因るか。慶長十二年九月廿日、壽德·入道七十二歲にて死し、同じき十五年五月廿七日、内匠頭光重·三十三歲にて卒す。光重·細川二位法印(幽齋の事)に刀を相する事を傳へて、當時無双の名を得たりき。光重が卒せし時、息男纔に八歲になりしかば、父祖の領、收公せらるべしと聞えて、輝政朝臣歎き申されし旨ありしかば、大御所·大坂に仰せられし事に依りて、終に本領を安堵し、尼が崎の城を賜ひて、三十郞政長と申す。大坂の軍起りし時、政長生年十二歲、關東の御方として大坂の催促に隨はず、其の居所無碍に大坂に近くして、又四國九國の通路に當れり云々。軍終りし後、政長を召されて動功の賞を行はる(一萬石を給ふ)。元和二年、播磨國楫東郡の地を賜て移る、(一萬石)。寛文元年叙爵し、丹波守に任じ、七年致仕入道して自得と號す。嫡男政明·父に繼ぎし年叙爵して丹波守に任じ、同じき九年、三十二歳にして卒す。舍第政宇家を〓ぎ、內匠頭に任ず、同十二年四月十八日、政長入道自得、七十歲にして卒す、」と。寬政系譜、及び武鑑に「壽德-內匠頭光重-丹波守政長(三十郞、內匠)-丹波守タケルへタケルへタケルへ三角形ノ タケルヘタケルへタケルヘータケワカ三〇〇光政(織部)-内匠頭政宇(政吉、政信)-主計政周(又右衞門)-久米之助政民政就-近江守長〓-內匠頭政賢-内匠頭政醇-內匠頭政和-三二郞政世-秀隆」(播磨林田一萬石)。現今子爵。その子光麿なり。樹てゝ之を誌すと。又幕末、筑前黑田藩名士に建部武彥自强(孫左奮門)あり。又武藏の〓家に建部巢兆(英親)、江戶書家に建部傳內賢文等、皆名あり、又越後攝津等に存し、多くタテペと云ふ。又近き世、建部遜吾先生あり。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)