延原
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
1菅原姓備作の豪族にして、安四軍策に延原内蔵丞、又浦上宗景家臣六員の一に延原彈正忠·見え、又「宗景家臣延原内蔵亮家次·作州に入り、その子次郞左衞門貞俊に至り、天正七年八月、浦上氏滅び、字喜多直家に仕へ、延原彈正忠景能と改め、花房職秀、岡家利、戶川秀安(少弱)と並び、宇喜多四天王の一たり」と傳ふ。彈正は美作古城記に「天正年中、延原彈正景光·軍勢を引具し、倉敷山の城を攻め、江見市之丞を討取る」슴江見條參照又山陽道美作記に「延原彈正景光の倉掛山」など載せ、又東作志に「英田郡川會圧小山川村高鉢山は、延原彈正の居所」、又「霧南郡公文庄勝間山(鳥貝山)。城主延原彈正少弼景光。延原は矢田山方の紳士さと。事掌に仕へて式名あり。一字を賜ふて景光とすす。作州英国郡上山、勝田郡勝間、二城の主たり。天正六年、浦上減亡の後は、本庄矢田山方に歸住する處、宇喜田直家に賴まれ、天神山の城を攻落し、亞いで作州の先鋒の將となり、天正七年三月上旬、岡山を立って、先づ手始めに雀部勘次郞貞利が周匠の城を攻落し、作州海田邑鷹巢城に江見次郞が籠り居るを燒討にし、同四月下旬、延原·倉掛山へ押寄する處、敵·後を取切りて、前後より攻め立つるにより、彈正·佐瀨邑迄引取り、郞等十七騎を討たせ、自身も深手を負ひ、位田邑島興山の城へ引退く爰に延原方の敗兵·再び色を直して、三星城へ押寄せたりしに、城兵切て出で、火花を散らして戰ふによ1.旗を卷いて湯郷へ引返へして、其〇後、景光は和田助四郞と内談して、位田島貝山に陣を張り、名を改めて勝間の城と號し、寄せ城にぞ仕たりける。時に宇喜田直家より、左京亮治家に四尾六五郞を相副へ、加勢として遣はす。爰に於て勝間城中にて評定して謀を巡し、後藤時元を撃ち取り、三星城を乘つ取る。其の後、血山城を攻めて、城主花房に郞左衛門·和を乞ふにより、無事を整へ、夫より備前をさして歸陣す。後年、本庄矢田邑へ引籠リて病死す。則ち矢田邑に葬る、憤上に社の木あり」と後世、勝北郡梶並庄西谷馬桑村庄屋に延原七右衞門、又英田郡江見庄國貞邑に延原嘉兵衞なるものあり「元弘の時、兒島高德·此の家に一宿す」と後には前述次郞左衞門貞後の裔と稱す。備前にも多Lo垂井、甲元、江見等の條參照。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)