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幅佐渡守

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

五八T近國-直好-賢房-直토도河内守:日向守日向守依·-直益-直春-直寐(茂昭)日向守日向守日向守左衛門佐出雲守越前守宗衍-治卿-齊恒-齊貴主計取出射守等佐渡守停置出少時出付等穿長孝-康致-康久慶倫は長い:三号三同守停從Hiff :直義商ト齊孝:直温第一5尋-定安淡路守田村守氣右ロッ直基-直短-基知ホルむら:第十十六百日矩榮(宣富)-淺之助五島石〓五大:少將------------------------------吉田大お守-宗矩兵部大輔長禁ござい大和守朝矩-直恒-直溫大和守去世話典常t . -矩典-典則むはき大和守直富-直明-直常-直純-直秦百錬守傳從四房左兵を省左兵百香六萬石左民 佐直之直周-齊福-慶意-直敬左兵衛管左長隆督兵部大輔直嵩美作守直方-直興: : 41越前家滅亡藩翰譜に「參議忠直卿は、中納言殿の御嫡子、童名に長吉丸、灸の御跡つがせ給ひ、慶長十六年の春、將軍家の御前にて元服あり、御諱字を賜はらせ給ひ、四位の少將兼三河守になさる。今年九月將軍家第四の姫君を北の方に參らせられ、越前の國に趣せたまふ(附贈君と申、時に九歲、一說に十二歲)。同十七年の冬、越前の國に事起りて、以の外に騒動す。まづ十月十九日、家老久世但馬守·罪蒙つて、本多、多賀谷·討手の大將承つて、押しよせ戰ふ、寄手討るゝもの二百餘人、久世が一族郞等百五拾人、枕を並べて討死す。明廿日、弓木左衞門·腹切つて死す。寄手討るゝもの三拾餘人、上田隼人、竹嶋周防·自害して、一族廓等をたすく。是は故中納言殿うせ給ひて後、宗徒の家人等二ツに成て、確執止む事なく、本多、久世、弓木、4.上田、岡部、竹嶋などいふ七人の家老·罪を撃り、岡部伊豫·此のよし訴んとて、関東に赴く。守殿·驚き給ひ、〓水丹後、今村掃部して、岡部を召返さる。されども互の爭論止むる事を得ず、岡部·又牧主殿と打連て關東に參る、牧いかに思ひけん、道より高野山に趣き入道す。愛に於いて、久世、弓木うたれ、上田、竹島·腹切つて死す。本多伊豆守富正は、彼の七人の隨一なりしかど、罪ゆるされて、人質を給ひし上は、久世が追手の先陣を取りき。此の時、大御所·關東に渡らせ給ひしかば、圍十月廿日、本多、清水等·關東に召され、十一月廿八日、兩御所みづから本多伊豆守、〓水丹後、今村掃部を召寄せられ、十二月二日、將軍家·御裁斷有つて、清水、今村、遠流に處せられ、彼の國務伊豆守富正たすくべき由を仰下さる。十八年三月訴人·再び起て、家人等また關東に參る。同六月、兩御所·仰けるは、斯國中の靜ならざる事、偏に參河守が年いまだ若かりしが致す所なり、今よりは國務の事、富正が沙汰たるべしとて、富正が一族本多丹下成重に、丸岡の城を賜ひて、彼の家に附けらる(成重は作左衛慶倫三同守:直温-定安田村守門重大君子、後に登驛守に任ず。今村掃部が傾せし地なり)。十九年冬、大阪の兵起りしかば、守殿·北陸道より馳せ向ひ、明る元和元年五月七日の合戰に、眞田、三宿を始めて、三千七百五十の首切つて、眞先に城にせめ入る、當時動功の第一にて、圍六月十九日、從三位參議になさる。動賞と聞えたリ。されども、此の殿みづから功の高きに誇り、賞のひくきを怒つて、我が父·大御所の長子として、天下をも讓らるべき身の、わづか國一つを領し、我又其の嫡子にて家を權ぎ、かゝる大功なくとも、个程の官·加階せざらんやと、日にそへてあら〓〓しき振舞のみ多く、大御所かくれさせ玉ひし後は、天下に恐れ憚りたまふ人なく、明けても暮れても、酒と色とに酖けり。少しも心に違ふ事あれば、男女にかぎらず、立ち所にみづから切て捨て給ひし者、いくらといふ數を知らず。將軍家も此の上は力なしとて、元和九年五月十二日、豐後國萩原に流され(五十石)、一伯と號し、此所も猶ほ人近しとて、今の所よりは三里餘を隔てたる、津森といふ所に徒され、廿五年の春秋を配所の慶安二年九月十日、年五十六にて空しくならせ給ひけり。御子多く、嫡男は仙千代丸·越後三位中將殿の御事なり。其の次は高松殿の御息所、其の次は九條關白通房公の北政所、是れ皆大相國家の御外孫、是れより下は、皆配所にて設け玉ひし所なり。兄は永見市正長賴、弟は同大藏長良と申し、二人ながら三位中將殿の御家人となる。今一人は、かの家の老小栗美作正矩が妻なりけり」と。(忠直の長男長七郞の事、俗傳に多し)。42越後家三位中將光長は、前項忠直の嫡子也。十歲の時、越後國に遷されて、高田城廿四萬石に、母の領二萬石を添へて、廿六萬石餘を領し、是より母を高田殿と稱す。寛永六年四月廿三日、元服、四位少將兼越後守、慶安四年十二月廿五日、三位の中將、其の男德千代丸は、承應二年十二月廿一日元服、綱賢と名乘り、從四位下侍從兼下野守より左少將、四十二歲にて、延寶二年正月晦日卒しければ、甥の永見市正の嫡子万德丸·嗣ぎ、綱國と稱し、從四位侍從兼三河守に任ぜられしが、天和元年、罪ありて國除、父光長は伊國松山に由に頼らる秀康·越前にうつりてより五十九年なり43津山藩其の後、大和守直短の二男、越後守矩榮·遺跡を嗣ぎ十萬石を領す。矩榮(少將、宣富)-淺之助-越後守長熙(實は知〓三男)-同長孝(宣維二男)-同康哉(康致)-同康又-(弟)越後守齊孝(克孝、五萬石)-同齊民(實は將軍家齊十六九、確堂と號す)-三河守慶倫(實は齊孝の男、少將)-康倫-康民にして、美作津山十萬石(明治四萬三千百二十石)。現今子爵。確堂四男齋は男爵を賜ふ。越前家津松平山44福井藩その祖參議忠昌は、秀廉の二男、童名は虎之助、元和元年正月十二日、四位侍從、伊豫守を兼ね、今年夏、大坂の役に高名す。同二年、信濃國河中島城十二萬石、同五年、越後國高田城に移り、廿四萬石、寛永元年、越前國に移り、五十二萬五千石、同三年參議正四位、正保二年八月朔日、四十九歲にて卒。嫡子萬千代丸·跡を繼ぎ、光通と名乘リ、從四位下侍從兼越前

(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)

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