左中(4)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
4豊後の字都宮氏宗綱の弟中務丞宗房の後にして、尊卑分脈に「宗圓-宗房(中務丞、四郞、姓を中原に改む〕-信房(大賴房含む-正慶 ウツノミウツノミウツノミ大丈夫元弘-横川爲平友枝信範-荒尾範景-赤熊範資常陸介城井冬綱賞は貞謂の子) 1傳法寺景思I豊房-楊梅仲房!佐田公景因縁機守師師中華夢隆房三河守兼繁余富-兼久七井盛房T經房荒巻盛俊上條道氏友枝道範-實兼吉富政房信方-信元- -資質城井尙房-信邦-信顯-信嗣西〓房長能信ゆな見女子如來就罰守室統房-房常-房政尙直-盛直秀直秀房( 15俊房-俊明直重直重-正房-長房-女子井八月森左脇門室妙田法國看鎭房朝房房昭-職長女子女子呼武種三日長政黨川底信養-城井市房冬綱の實父貞綱は「字都宮朝網-大庭成綱-字都宮賴綱-拳綱-景綱-貞綱」にて、有名なる公網も貞綱の子なり。冬綱·曆應元年豊前守護、延文五年、鰺坂に於いて官軍と合戰、弟參河守隆房·延文五年官軍に屬す。その後應永正長の頃·盛直、永享應仁の頃·家久(家尙)、天文永祿の頃·兼綱、次いで鎭房ありて仲津築城、當地方に感を振ひしが、黒田氏に亡ぼさる。國志に宇津宮民部少輔導房、長男彌三郞朝房、天正十五年秀吉公薩摩打信方-信元-入、御先陣相勤と云とも、御氣色に應ぜず」と。黒田氏入園するや城井城に據りて堅く守る。孝高(如水)謀つて其の女を娶り、鎭房を招いて之を斬り、その男彌三郞朝房、逃れしも亦肥後に斬らる。その子左近福房東國に通れ、後越前侯に仕ふとぞ。又一本系圖に「冬綱(城井常陸分、大和守、始めの名高房、中頃冬綱、後に守絹と改む。延文四年八月、菊池武光、懷良親王を奉じて、少貳賴尙と筑前大原に戰ふ。賴〓利あらず、冬欄自ら二千五百兵を率ゐて大原に至り、少貳に會し、弟隆房の軍を計つ、隆房戰死す」とo而して頼房-冬綱(高房)(守網)當論介大和守-重綱中利小時-豊房臨原守仲房前登守こ陌布き公景-經景-親景(道節)-盛景国際経守大腦死四福大路三師冬: -隆房を利守家綱(兵部少輔)-直綱播磨守)-盛綱(出羽守)-家尚(民部少輔)-尙直(左馬助)-盛直(播磨守)-秀直(常陸介、に重綱中唐今日房家吉富房政家綱部今回(實に公調の子)左馬ね尙直民己小幅家尙一直嗣盛綱3日週五五盛直-秀直-秀房-正房-長房-鐵房:當時分常陸介有東、常陸分足部少輔川底信義朝房-朝末:冬綱の後は又一本に、「冬綱重綱-家綱直編〓盛網-家尙廃棄康綱味本-親綱-言信-房綱秀房)-弘堯(常陸介、一に奧房) -正房(豊後守)-長甫(常陸介)-鎭房(城井彌三郞、民部少輔)-朝房(彌三郞)なりと。公最、隆房の事は猶ほ肥後の條にて云ふんっ此の南北朝以後の宇都宮氏の出自については異說頗る多し、卽ち、一本系圖に、「景綱-貞綱-泰綱(一本泰宗、五郞右衞門常陸介)-貞泰(三河守、法名蓮智、九州下向、住〓前中津)-義綱(豊前守、中津城に住む、山下川崎祖)」と。又一本に「景綱貞綱下野守-公綱前高大參宗-貞泰義綱-元網五井直35 3両守河崎出下祖九州下町大和守中津住-貞久-懷久豊崎守登録守-良邦刑部少輔、大原合戰討死1時綱-貞宗豊前守清綱、同紀伊式部大輔安綱、山鹿麻生二郎元親」と0 6筑後の字都宮氏當國の名族蒲池氏も亦字都宮氏なりと云ふ。卽ち將士軍談に「爰に宇都宮彌三郞朝綱八代の孫字都宮參河三郞久憲と云ふ人あり、(瀨高庄祇園社々記日ふ。字都宮彌三郎嫡子小太郞藤原中次第重國祇園宮を護り奉る云々、今按ずるに此の說信じ難し。又曰蒲池村崇久寺蒲池久憲建立也、又按ずるに開基帳に云ふ、牟田口村玉垂宮は傾主宇都宮祖子源忠宗建立、此忠宗の子孫代々の領主也と。)祖父壹岐守貞久は同刑部丞貞邦と共に宮方に候して應安四年征西將軍宮に供奉して八代に在り、貞久の子壹岐守懷久、その子久憲·蒲池出羽守の娘を娶り蒲池參河守久憲と號す」と。又今村家記に「蒲池氏先祖の事、下野國字都宮彌三郞友網の末葉、知久、知觀兄弟二人、字治橋合戰の時功あり、筑後國を玉はり、兄弟二人鎭西に下リ、彌二郞は山門郡大木村に在城し、大木主計頭と云ふ、彌三郞は蒲池村に在城、蒲池下野守義久と云ふ、家紋は三ツ頭左巴也。又鶴の丸を用ふる也」と。而して筑後宇都宮系圖に「貞綱山鹿-泰綱(五郞右衞門、常陸介)-貞泰-壹岐守貞久(豊前守義綱弟) -久久久久-繁久(蒲池、犬塚等祖)童岐守日付き-資綱-政長大木太馬-光輝舍人駒菊丸長木警情姿子又一本に「貞拳-貞久(壹岐守、義綱弟) -懷久(壹岐守)-久則(蒲池壹岐守)、弟資綱(宇都宮舍人助)-政長(大木三郞二郞)」なりと。されど、此等の系圖は容易に信じ離し、蒲池條を見よ。四半田氏も亦本姓字部宮氏と稱す。卽ち「西牟田彌次郞家綱入道行西、嘉禎年中、豆州三島より三潴郡四牟田村に來住し、堡を築き、本姓字都宮を改め四牟田を以て稱號とす、」と。これも信じ難し。肥前の宇都宮氏彼杵郡宮村の宮村氏7も宇都宮氏と稱す、萩坂郷萩坂に宇都宮神社あり、宇都宮彌三郞の子孫能登守、地頭となりて勸請する處なりと。松浦郡相賀村法幢寺鐘銘に「大旦那駿河守藤原朝臣通景敬造、西海路肥前州被杵庄內父賀志村字都宮貴賤男女大小助緣、不可勝數永和二季丙辰八月吉日」と-良邦刑部少輔、大原合戰討死1時綱-貞宗三再守五七七5筑前の字都宮氏續風土記に「建久五年字都宮上野介重業、筑前に地を賜はり、下向して遠賀郡麻生〓花尾の城を取立、後に帆柱山にも城を築けり、麻生氏の元祖」これなりと。(アサフ條を見よ)。又山鹿氏は宇都宮家政の後と云ふ、(ヤマガ條を見よ)。鎭四要略嘉吉元年條に「宇都宮大原合戰討死 ウツノミウツノミウツノミ夫人8肥後の宇都宮氏觀應元年十二月二十日の佐田文書に「豊前國元永村、同國伊加田庄、肥後國岩野村、同國木葉村、地頭職の事、勳功の賞となして宛行ふ所なリ云々、宇都宮因幡權守殿」と、因幡權守は公最なり、(第六項參照)。其の曾孫因幡守盛景八世の孫佐田五郞左衞門·細川家に仕ふ。公最の弟參河守隆房、懷良親王に仕へ肥後に居る。正平十四年八月親王に從ひ、少貳等と大原に戰ひ、少貳忠資等を斬る、時に兄冬綱大軍を率ひ、隆房と戰ふ。隆房戰死·年三十一、親王爲に危難を脫れ給ふ。玉名郡木葉村字都宮大明神は其の靈を祀る。又木葉城一名字都宮城と云ふ(國志、事蹟通考)。(大平記勤王方に字都宮刑部丞) 9菊池氏流菊池系圖に「持朝-爲光(號宇都宮)」と見ゆ。嘉吉三年の菊池持朝侍帳に宇津宮新太郞綱行あり。10日向の宇都宮氏圖田帳に「久目田八町、沒官領、地頭字都宮所衆信房」と、早くより此の氏の所領ありしを知るべLo鎭西要略正平九年條に「宇都宮大和守·武家に從ひ、諸縣郡六笠城を以つて國中を警衞す」とo又日向記に「那賀城主云々、字津宮左馬助」を載せ、又字都宮ともあり。諸縣郡救仁安樂村山口社記には天智天皇行幸の際、字都宮以下八人の臣御供として下り、此の地に土着すと云ふ11大隅の字都宮氏代々宇都宮氏と稱し家讓名乘字快を用ひ來たりしも、後正字に變更す、家紋は三頭左巴を用ふ。系圓あり、始視眞覺とありて、腰書に「圓酸帝貞元元年丙子下野國字部宮より阿彌陀如來の佛像を負來り、大隈國肝付高山に移居り、寺を勸請建立す、此を神宮寺と云」とa十一代前分家して薩摩國宮之城に居住せる者あり。家に格護せる系圖に「始祖權大信都法印大越家眞覺」と。其腰書に「貞元元年丙子、野州宇都宮よリ阿彌陀佛を負下リ大隅國肝付郡高山に安置して神宮寺と稱し、自ら座主となり、大林坊居住」と。高山村役場に保存せる名勝誌と稱する舊記に神宮寺記載の欄あり、夫れには「山號玉菴山光臺院神宮寺と稱し、貞元元年丙子、權大僧都字都宮眞覺開山」とo寺は元肝付氏の祈願所なり、肝付氏在城の當時迄、全邑崇敬し字都宮氏子孫代々其座主たりしが、肝付氏落城と共に無住となり居しを、二階堂氏藩命に因り來り住むとなり。12伊豫の字都宮氏宇都宮氏は亦當國の大族なれど、其の系統に不明なる點尠からず。先づ分脈には「賴綱-賴業(越中守、從五位下、伊奧守護) -泰親泰業長門ず百分子泰景太郞左-宗業-業親左衞門山明米泰業...貞朝師綱二郞出現等長門守安藝守I實業大橋門尉景業七郎左-秀業八兄左-報基-茂業-宗業業業越中守と載せ、武茂系圖には、賴業の兄弟に當る秦綱の子「景綱-泰宗-景泰(遠江守從五位下、京都守護となり、烏丸に住す)-宗泰(三河守、伊豫國住人)-朝宗(三河守、大州城主、字都宮遠江守豐綱の祖)と見え、(太平記字都宮遠江守)。又曰く「伊豫宇都宮氏の祖は、九州奉行大和守賴房の次子豊房なり。豊房、永仁元年下野國に生れ、元德二年三月朝、伊豫國二階守護職に任ぜらる。元弘元年伊豫大洲城を築きて在城す。子なかりしかば、同族遠江守最泰の男、左近大輔宗泰を養子となし、爾後豊綱の時、天正七年長曾我部元親の軍に攻められ、武運拙なく備後山中に遁れ、同十三年病痾の爲に歿し、宇都宮氏亡ぶと。伊豫に字都宮氏を名乘り裔孫と稱するもの尠からず。大洲城主字都宮氏歷世には異說ありて、或は宗奉を伊豫字都宮氏の祖と爲し、或は其の子三河守朝宗を大洲宇都宮氏の祖と爲すものあれども正しからず。今其の略系を示さば『藤原道兼-兼隆-兼房-宗圓(宇都宮氏祖)-宗房-信房-助信-最房-賴房-豐房(從四位下、兼薩摩守、應安二年八月十八日卒、城顧院殿繼將萬眞大居士) -宗泰(遠江守、明德三年二月八日卒、春宗泰雲大居士)-泰輔(式部左近大輔、東江院殿了秦自輔大居士、文安二年七月三日卒) 1末綱(左衞門尉、文明十年三月卒、東皐院殿家參明綱大居士)-安綱(左近大輔、周野す、文亀二年卒、光國院殿安養綱仙大居士)-宣綱(左近蔵人、天文十二年卒、祭崇字都宮大明神)-〓綱(左近大輔、天文十二年卒、秦〓院殿綱嶽了支大居士) -豐綱(遠江守、天正十三年卒、〓源寺殿前遠州大守、(永祿年間逝去說不可也)蓮翁花公大居士)』なり」(橫田傳松氏說)と。當國字都宮氏は忽那一族軍忠次第に〓多郡根來城字都宮家人、元弘二年二月發向、府中守護參河守貞宗館合戰、後二月十一日、喜多郡根來城、自二月一日、至于同十一日合戰云々、」また忽那島開發記に「元弘三癸酉年、伊與國喜多郡地頭字都宮遠江守、根來山に城堺を構へ、朝敵を致す」と。これより先、豫章記に곱多郡を以て梶原平三最時に賜ふ。梶原失はるゝ時、的矢を以つて景時を射、勳功に依りて宇都宮之を賜ふ」と見ゆ。以上の如く當國字都宮氏については、說頗る多けれど、鎌倉時代に入國し、其の後下野並に豐前字都宮氏の來往ありしが如し。而して南北朝の頃は武家方として活動し、當時より喜多郡大洲城に據りし事は明白なり。されど大洲に定住して附近に威を振ひし字都宮氏が何流の字都宮氏なるかは容易に決し難し。殊に此の地方には一層古くより宇津宮傳說のあるを見るなり。宇津の宮は喜多郡宇津邑王屋敷に居住せられし方にて嵯峨天皇第四の宮など傳へらるゝも、其の實伊豫郡靈宮より來りし傳說にて、當國々造族活動の遣跡に過ぎず(字都條並に浮穴條を見よ)。而して後世大洲附近に字都宮神社多く、内大洲の宇都宮明神は「元德二年字都宮大和守賴方守護職として任國下向したる時勸請す」など云へど、其實字津の宮關係の神社多く、宇都宮氏入國以前より存せしが、字津の宮と字都宮と音通じ、旦つ字都宮氏領主たりしより混淆して、何れも字都宮氏關係の神社と也しが如く想像せらる。されば宇都宮中河原天神は「宮天神と稱す。人王八十代高倉院御字治承二戊戌二月廿五日、下野豐前兩國の牧字都宮大和守藤原信房の勸請なり」など云はれ、更に「伊豫掾純友退治の時、橘遠保に從つて宇都宮某といふ者、下野國字都宮より來り、河野の幕下となる」など傳へらる。筑後字都宮族が豐後宇都宮氏と明白なる關係なく、而して伊豆より來り、三島社を勸請す等傳ふるも、亦、當國字津宮と關係ある者にして、伊豆は伊豫、三島は伊豆の三島にあらずして當國の三島社なら ウツノミウノツミウツノミ-ウツハシ充Cんと考へらる。これ等より云へば、大洲字都宮氏の出自は容易に決する能はざるなり。伊豫字都宮氏は永祿六年の役人付に字都宮遠江守(伊豫國)と見ゆ。こは大洲字都宮にて、又字和郡にもあり、南路志に「四伊豫の字和郡、西園寺、宇津宮、御庄、川原淵、北之川、此の五人は往古より大身なり」とa宇和郡久枝春日明神の寄進狀に一西園寺殿藤原朝臣公廣、井に代官宇都宮左近大夫奥綱」と。大洲家は南海治亂記に「字都宮遠江守豐網が臣菅田治部大夫直之、近郡を取りて自立せんと欲し、土州兵を假る」と、又陰德記に「永祿十一年二月、吉川父子、大津城を攻め、城主宇津宮豐綱を降す」等見ゆ。(字和郡多田の字津宮氏は永綱の後にて、忠〓、貞綱、伊綱等あり、多田條を見よ)。13備中の宇都宮當國後月郡高越城は東江原村にあり。弘安四年、蒙古來襲の際、字都宮貞綱、命を承けて山陽道を警固し、本城を築く(備中府志)。14紀伊の字都宮氏宇都宮和泉守泰景の後なり。宮井條を見よ。15佐々木氏流尊卑分脈に「池田太郞定信-貞高(號字都宮三郞左衞門尉、法名正意)-秀定(三郞左衞門尉)」と見ゆ。れより前、中原信房が近江善積庄を領せし事は既に云へリ、關係あるか。16美濃の字都宮氏長享元年常德院殿江州動座在陣衆著到に「濃州宇都宮石見守、同次郞宗桐」と。17尾張の字都宮氏津島神社十五家の一に此の氏あり、後世神子方なり。18宇都野氏流寛政系譜字都宮氏二家あリ。共に宇都野氏より出づ。家紋三頭左巴19三河の字都宮氏ウツ、並に大久保條を見よ。20岩代の字都宮氏康應二年(元中七年)宇都宮刑部大輔氏廣、吉良氏に代りて四本松を賜はりしが、應永七年九月謀反して、斯波石橋兩氏に攻められ、氏廣、その子三郞氏公共に自殺す。中古治亂記に「宇津宮權太郞氏廣、其の子孫三郞氏公、並に島氏等、奥州に一揆を企て、二本松の城に籠る云々」と0 21常陸の字都宮氏笠間城は字都宮盛總の居城なりしと。又田島村和光院の過去帳に「丁卯四月廿三日。月山御老母字部宮芳賀娘」を載せたり。22宇都宮社家二荒條に云ふべし。23その他、餘目舊記に「字都宮と留守は兄弟のながれにて、うづの宮役を芳加もち候」と又下野國志に「宇都宮景泰の二男貞泰は公綱の猶子となり、遠江守綱景と號し、都賀郡西方、三澤〓、鶴岡の峯に住す。その後裔太郞左衞門網吉は天正の初め上京して信長公に勤仕しけるが、公の薨去後國に歸り、芳賀郡赤羽郷を知行す。其の男太郞左衞門尉網〓、一門沒落の後舊領西方に潛居す」と。德川時代水戶藩の重臣、福井松平藩の中老にあリ、又信濃、石見、備前、志摩等にも存レ、又平安の儒者字都宮由的あり、遜菴と號す。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第1巻』磯部甲陽堂(1942年)2頁)