川(1)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
。讃岐國造の後、卽ち最行天皇の皇子神櫛王の嫡裔にして、本州屈指の名族たり。サヌキ條を見よ。此の氏のことは、南海通記に「寒川氏は讃岐朝臣二十八煙の一煙也。世々相續いて寒川の郡司たり。武家の世に到りても王家に睦び多し。細川家、領家の知る處なれば、其の禍·有る事にあらず。元 に年中に寒川氏に口宣を下し賜はりて、寒川氏が惣領の子を召し上せられて、禁中の御領吏務の役を命ぜらるゝ事あり。其の口宣·寒川氏の家臣筋目の者の家に傳へて今にあり。鎌倉將軍家より後、武人の單·王家に仕ふる事なしといへども、公家の士同前なれば、先例を以つて召し上せらると也一載せ、又全讃史に一讃岐朝臣直高の二男元直は、寒川郡を采地とす、是れ寒川氏の領なり。文明年中、三谷兵庫頭景久なる者ありて、寒川常都の神前城を攻む。常隣も亦、遭つて景久をこの族の長宗我部元親陣營の所」to又茶白山城は富田東村に在り、寒河右馬允·これに居る。其の城に今·祠あり。或は云ふ。仁德帝陵一と載せ、また「常隣城は神前下村にあり。寒河左馬入道常隣·これを築く、因りて常隣城と曰ふ。大永年中、安藤筑前守·此の城を侵す。城主神前出羽少目·これを拒き、長尾實議院主をして、强敵退治の法を行はしむ。則ち不動明王創鋒に血·滴り流る。而して安富·敗走す。今に其の血·存すと云ふ」とあり。又連内城は「長尾八幡南に在り。寒河左馬尤常隣·始めて之を築く。天正の時、寒河光永·これに居る。今按ずるに、是れ蓋し細河伊豫守繁氏·始めて之を築き、後に常隣これる戌る也、」など載せたり。東鑑に御家人橋大夫盛資·見ゆ、此の氏人也と。タチバナ條を見よ。下つて文明中、寒川左馬尤·三谷氏と戰ひて敗る。三谷條を見よ。その後、安富氏の爲に大内郡を奪はる、ヤストミ條を見よ。家紋は見聞諸家紋に、紀伊の寒川氏日高郡寒川莊の領主にして、續風土記同莊條に一天正以前、寒川七左衞門·此の地を領す」と載せ、又笠松村上愛德六社權現社神主寒川氏條に「土居村に住す。古寒川七左衞門と云ひ、寒川莊五ヶ村を領すと云ふ。関ヶ原役後、浪人となり、後淺野氏に仕ふ。又浪人となり歸〓し、農となる。溟人後も當社を領內の產土神とせしより、支配して終に神職となれり」と見ゆ。又當郡園浦に寒川作次あり、子孫鈴木條を見よ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)