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川飛驒守

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

口元之 田熊之助と號す。秀次御生害の後、加州に行き、中川久右衞門と改め、八百石、寛永四年丁卯七月二十二日卒)-爲成(中川主馬助、伯父久右衛門の家督相續、七十九歳卒。實は佐治與九郎が長子也。然れども大坂陣の砌、實父與九郞宅より大坂城中へ立籠るに付、落城の後、實父與九郞宅え歸る事叶はず、之に依りて加州の伯父久右衞門の所え行き、久右衞門·幸に實子なし、故に主馬助を子と爲す。妹は加州永原土佐の室、其の妹は如州大河原助右衞門の室)-女子(鶴見甚左衞門CIT、其の妹に加州服部道慶の室、其の弟成正は中川主水と號す、萬治三年正月八日早世、また妹に加州柴山彦三郞室あリ)」と。又佐治與九郞一成の子「一置(實は中川主馬の長子也。佐治與右衞門、丹州織田上野介信勝代迄住す。童名主水、後に與右衞門、千三百五十石を給ふ。實は加州中川主馬助が長子にて、大坂陣中に出生、祖臭九郞、後巨哉·加州より呼び寄せ養育す。巨哉の家督を相續す。然るに上野介信勝、二十七歲疱瘡にて死す。子無く家亡ぶ。これに依リ臭右衞門浪人して、江戶に在り、承應四乙未年二月三日、江戶に於いて浪人にて死す、四十一歲。葬赤坂靈光院、〓外院殿鼠岸宗治居士)」と見ゆ。13尾張の中川氏以上各條を見よ。重政は信長記に「中川八郞右衞門」と載せ、又文書に「八郞右衞門尉重政」とあり。又武家事記に「中川八郞右衞門尉忠政」と。有名の人也。後裔第二十二項を見よ。その他にも多し。津田條參照。又豐鑑卷二に「信雄のずさ中川勘右衞門」見ゆ。その名は定成にして、犬山城代たリき(天正十一年)。又愛知郡に米野城(米野村下米野)あり、尾張志に「城主は中川彌兵衞なりと、府志にいへるが如し。弘治の頃、當城主は林佐渡守の臭力にて、信長公に別心のさまをあらはせるよし、信長記に見えたり」とあり。又武衛家庵下の士に中川固幡守清政なるものあり、名古屋村の人なりと。又加藤〓正の再從兄弟に中川太郞兵衛(豐後)、その子壽林、又從兄弟婿に中川將監·見ゆ。14三河の中川氏藤原南家と稱し、家譜に「巨勢麿の男·眞作十二代の孫進士大夫〓兼、はじめて中川と稱す。其の七代孫越中守忠〓の後也」と見ゆ、第五項參照家紋丸に鳩酸草、鎧蝶。源次郞忠吉(松平廣忠に仕へ、天文十八年二月十六日死、年四十一、三河國山中法藏寺葬)-市右衞門忠重-同忠次(實は忠重の弟與助忠近の男、二千十石)-同忠明」と寬政系譜にあり。又一に「中河武藏守榮成、八代孫肥後守重友がとき、中川に改む。其の十四代孫傳左衞門重俊、今川義元に仕ふ。その子惣二郞(重久)-傳左衞門(重政)-傳三郞(重明)」と云ふもあり。寛永系譜、寬政系譜に見ゆ。家紋轡、源氏車。以上の二流は、寛永系圖には源氏とす。猶ほ外に〓兼〓と云ふあり。京師の醫師養玄隆宅の後にて、家紋鳩酸草、丸に鳩、七七、牡丹花、花菱。その他下藤のうち洲濱一文字、五三桐の者もあり。又「賣飯郡小坂井村古屋敷云々、中川勘助·居住す」とa 15甲斐の中川氏東八代郡中川村より起リ、中川左近太夫朝義の後胤と

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

系図・系譜

関連論文

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