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岡三郞左

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

Tett 、と稱す。10淺井氏流肥前片岡氏は近江淺井氏の後なりと云ふ」(大村藩士系錄)。11甲斐の片岡氏巨摩郡にあり、名族なりと。12鹿島姓常陸國鹿島郡の片岡邑より起る。第二項片岡大連と関係あるか。二有名なる片岡太郎經春を出せし氏にて、平家物語に「片岡太郞經春、」源平盛衰記に「片岡太郞經治」また「片岡太郞經春、第八郞爲春、」また「片岡兵衞經俊、」また「常陸國住人片岡太郞經春」など見え、東鑑卷二、五、九に片岡八郞常春を載せ、義經紀卷八に「片岡·七騎が中に走リ入つて戰ふ程に、肩も腕もこらへずして、疵多く負ひければ、叶はじとや思ひけん、腹かき切り失せにけリ」と。此片岡氏については新編國志に「片岡、鹿島郡鹿島郷片岡より出たり」と載せ、又「片岡、本姓詳ならず。源平盛衰記に當國の住人片岡太郞經春、同八郞爲春とあり。判官物語に『片岡こそ常陸國鹿島行方と云ふ荒磯にて、素生したる者なり』とあり。因て按ずるに、鹿島郡鹿島〓に片岡と云ふ地あり。片岡神主の櫨ある地にて舊地名なり。然らば、この片岡氏の出る所はこの地なるべし」と。前者は片岡神主の家にて、後者は經春の家を云ふ。蓋し同族にて、また鹿島族ならんか。13下總の片岡氏前項片岡氏は下總に所領あり。東鑑文治元年十一月廿八日條に「片岡八郎常春、佐竹太郞(常春勇)に同心し、謀叛の企ある間、彼の領所下總國三埼莊を召放たれ畢る」と。又同書、文治五年三月十日の條に「片岡次郞常春、奇謀の聞あるに依り、領所等(下總國三崎庄、舟木、横根)を召し放たると雖、元の如く返付せらるゝ處、沙汰人等、日者の融令、忽〓の由訴へ申すの間、停止すべきの旨仰下さる云々」と見ゆ。14常陸藤姓第十二項に同じきも、二十四輩願拜圖會に「南庄乘然房は俗姓は藤原親綱とて、舍兄鹿島の神官、片岡尾張權守信親云々」と載せたり。15〓和源氏佐竹氏流新治郡片岡邑より起りしか。新編國志に「片岡、稻木盛義二子義計·片岡源次と稱す。後·孫次郞義勝と更む。二子義郷、義夏、(戶村本系圖)」と載せたり。16桓武平氏葛西氏流陸中國江刺郡片岡邑より起る。封内記に「片岡邑云々、毘沙門堂·永德以來、片岡氏居舘の地に在リ。明曆中、多門寺中に移る」と。同地白山神社嘉慶元年八月十七日種札寫に施主片岡殿北方、」と。また「永正八年二月吉日、施主片岡平重朝」とあり。17丹後の片岡氏武家時代榮ゆ。先づ正應元年の田數目錄に「與佐郡永久保、十三町七段百五十六歩、片岡與五郞」と載せ、又康正造內裏段錢引付に「內六貫八百七十三文、片岡奥五郞殿。丹州永久保、段錢」とあり。而して永享以來御番帳に「二番片岡與五郞、」また常德院江州動座着到に「二番衆、片岡與五郞、」文安年中御番帳に二番「片岡大和余五郞、」また文祿六年諸役人附に「御小袖御番衆、片岡大和守晴親、片岡與五郞輝親、」又長祿寬正記に此の氏人屢々見ゆ。此等は恐らく大和の片岡氏と同族ならんか。室町時代に於いては片岡氏中第一の名族たりし也。18丹波の片岡氏何鹿郡報恩寺城(同村報恩寺)は永享年間、片岡近江守の居城なりき。その後、永祿二年、物部城主上原衞門大輔の爲敗減す。19片岡八郞太平記卷五、大塔宮に隨從名族な陸中國江刺郡片岡大塔宮に隨從する士に片岡八郞あり、動王の士として天下に名高し。大和東十津川村玉置川の内經尾上に其の墓あり。其の碑に「嗚呼、此れ南朝忠臣、片岡八郞の埋骨處也。元宏帝の笠置に狩せらるゝや、護良親王南都を通る、君及び矢田彥七等從ふ。遂に共に道士の裝と爲りて熊野に走り、大和十津川〓に出づ。〓士竹原八郞、殿野兵衞迎へて之を奉ず。居ること半載、賊來リ過る、君乃ち戰死す。因りて此に葬る、實に元宏の二年也」と。この片岡氏は「大織冠鎌足の後裔從三位宰相綱磨(和州葛經て、下郡片岡に住す、八郞利一(大塔の宮に仕へて功あ依て姓とす、)十一代をリ、吉野に討死す、)十代を經て彌太郞春三、後年出家して雲巴法師と稱し、達磨寺に住す。八郎氏の後裔は片岡甚藏氏とて、現に大和片岡村に居住せらるる由、先年贈位之節の位記は、現に同氏が拜受せられし由(松岡氏)」と云ふ。一說八郞·後僧となりて快心と稱し、其の子孫猶ほ南朝に盡す(大和志料)と云〓和源氏末流源元高の後と云ひ、巡撿勾當(所司)片岡氏は同源遠貞の裔と云ふ。21同藤姓同じく岩〓水祠官にして、駒形預禰宜、警固壯士等に此の流あり。22橘姓應仁私記に「片岡橋太(橘正道)」及び「片岡次郞(正道弟、橋正基)」を載せたり。23備前平氏備前國邑久郡片岡邑より起60當地方の名族にして、元弘の頃、民部丞範季あり。以下有名なる人多し。されど其の家系には信じ難き點願る多く、片岡經春の後とする如き、殊に鷺尾三郞と片岡とを混同する最も惡し。源平盛衰記にも「鷲尾三郞と云べし、名乘鷲尾の事はは我が片名に父が片名を取りて經春と付べし、片岡と同名なれども、多き人なれば事かけじ」とあるにあらずや、猶ほワシヲ條を見よ。平家物語には三郞義久に作る。其の家諸に據るに、「立家の祖鷲尾經春、(平貞盛の子家衡に出づ)、經春·生國は大和國片岡村の產、從五位下左衞門少尉、兼伊豫守源義經朝臣、副將軍仰焉、都於堀川御所、関四三十三個所、御側を去らずと云ふ。一ノ谷合戰の忠功に依リ、領地を當國に宛て行はれ、備前邑久郡豐原の莊内入賀村大附に城を築く。平安に住ひける際、平家の殘黨押取の禍をなす者共を搦めて、堀川御所へ引かせけるに、義經公より照狀に預かる。其の後義經公御供にて、奥州秀衡の館に御在住、然るに秦衡心腹變り高館の城御退。義經公感狀、八月十一日付、下邑久郡片岡經春書。元弘三年五月十日付、片岡別宮下民部亟範季、傳家の寶藏なり。鷲尾經春は生國大和片岡村を以て姓とし、片岡八耶と云ふ。奥州下向に付き、一子經明を大附に遺して馳せ參じ、片岡彈正經明幼命により、正治元年、城の鬼門に當る妹岡少なれ共、父の名蹟を繼ぎ、父經春の遣山へ、男山八幡宮を勸請して代々一家の氏神と祭る。經明長ずるに及び、時の帝、土御門天皇え奉宮仕。片岡玄蕃之助經亂·城廓(大付城)相續。後堀河天皇え奉宮仕。子孫打繼、御代々え奉宮仕。子孫片岡八郎經信迄、後醍醐天皇え奉宮仕。皇子大塔宮二品親王え奉仕、大塔宮御開の時、紀州熊野地十津川にて玉置庄司、大塔宮を襲ひ來るを、片岡八郞經信、矢田彦七兩人路留り、防戰して經信忠死致。大塔宮吉野へ御籠り、八郞經信の舍弟片岡民20岩〓水、源姓岩清水八幡宮の舊祠官に片岡氏多し。先づ衞府司(所司)片岡家は カタオカカタオカ俣野氏肝煎役を動め富有を極む。經直嫡男五郞右衞門經季、元文元年逝き、嫡男万介、後三郞兵衞常布家を嗣ぐ。家紋として古來用ひし立一に左巴、之は片字のくづし也。中興民部丞範季、足利尊氏に仕へ、丸に二ツ引を併せ用ひ、重に巴の分は之を道具に用ひ、二ツ引は衣服に用ひしと。略系。平貞盛-家衡(鷲尾立家) -經春(片岡立家、大村築城)-彈正經明(土御門宮

(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)

系図・系譜

関連論文

外部リンク