尾藤(3)
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概要
関連文献
姓氏家系大辞典
3尾張の尾藤氏春日井郡に尾藤城ありて三ツ井村に跡あり。尾張志に「尾藤源內住みしといひ傳へたり。源內は森三左衞門可政の家人にて、元亀元年九月十九日、近江の坂本にて戰死せしよし、府志に記甘口されども金山事蹟考、金山記後集、金山記全集大成等に、この源内の事見えず。其の頃、信長公に從ひし尾藤甚右衞門は森家に親しき人なれば、それが一族にて、森可政にも屬せしものにや。重吉村の住民·美山と名のるものは、此の源内が末孫にて、それが家傳に『代々信濃國の武士なりしが、小笠原家斷絕の後、水祿の明、三ッ井村に來リ、一城を構へ住みし』由いへり。かくては森家の屬士ならぬ事明らけく、よく叶へり。重吉は則ち源内が名乗にて、今村名に呼べるも其の領主より起れりとぞ。同じ家傳に『後三河國に移リ住みし』といふ。三河二葉松に額田郡赤羽根村に美藤源内屋敷跡ありと見えたり。其の時は奥平美作守に屬せし」とぞ。美藤條參照。尾藤甚右衞門は知定、知重、光房、知宣等に作る。後左衞門尉たり。秀吉に從ひて功多く、讃岐に封ぜらる。安西軍策に尾藤神右衞門尉と載せ、全讚史に「尾藤甚右衞門·天正十五年正月、當國に對ぜらると雖、間もなく沒收、八月生駒氏封ぜらる」と云ひ、また「天正十三年、秀吉南征、尾藤知宣等を讚州に封ず」と、南海通記等に見ゆ。知定は石田三成の舅なりと。その男金助は細川忠興に仕へて三千石、その男金右衞門は島原に戰死すと云ふ(野史)。幕臣家紋下藤、抱澤瀉。屋藤二州(良佐孝肇)の家にして、伊豫國川江村の人也者として其の名高く、二百石を賜ふ。妻は猪川氏也。その男を水竹(積高)と云ふ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)
尊卑分脈(記事名の出現頁・OCR照合)
- 『本朝尊卑分脈』(洞院公定撰、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[1]:5頁
- 『本朝尊卑分脈』(洞院公定撰、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[3]:3頁、70頁、71頁
- 『本朝尊卑分脈』(洞院公定撰、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[5]:48頁
系図綜覧(記事名の出現頁・OCR照合)
- 『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション)第一:110頁
- 『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション)第二:154頁
- 『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション)第1:109頁
- 『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション)第2:152頁
- 『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション):111頁、386頁