尾張(1)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
吾北 ヒライハヒライハヒライハ-ヒラウチ五〇五八常には家の事執リ行ひ、軍には御介副にぞ候ひける。されば三郞殿·御年若く渡らせ給ひ、弓矢の御名、海道に顯れ給ひししかしながら親吉が功莫大なりとぞ聞えたる。天正七年の秋、三郞殿の初男織田殿·酒井左衞門尉忠次を召され、三郞殿御謀反の聞えあり、事いまだならざるに及で、速かに誅せらるべき所なりとぞ宜ひ遣はさる。親吉·此の由を聞て大に驚き、急ぎ德川殿に參り、岡崎殿·御謀反の聞え有りて失はれ給ふべしと承る。父子の御中、何の御恨がありて、今かゝる御結搆や候べき、これは偏に讒者の訴ふる所と存ず」と。家忠日記追加に「八月三日、大神君·岡崎に渡御、故有りて三郞信康と父子御不快たるに因りて、信康避けて大濱に閑居し玉ふ。四日三郞·岡崎に來て誤なき旨言を盡して陳謝し玉ごと又落輸語に「詮ずるところ、親吉·年來御傳として、彼の殿に附けられ給ひし上は、罪·親吉一人が身の上に歸せられ、速に首を召して、信長へ參らせられんには、信長しばしは宜ひ出ざるゝ旨も有る可らずと申す。線川數·此の理由を聞召され、信康が謀反の聞え誠とも覺えず。去ながら我いま大國の中に差夾まれ、頼む所は、たゞ信長の助くる所なり。今日彼の助を失はんには、我家亡びん事、明日を出づべからず。信康迚も通るまじきもの故に、汝まで失うて、家康が耻ぢ再び重ねんこと口惜かるべしと、御淚に咽び仰せければ親吉聲も惜しまず泣き居たり。扨あるべきにあらざれば、三郞殿·岡崎の城を出され給ひ、二俣の城に至リ、奚にて御腹めさるべきにて、天方山城守、服部半藏御使に參り向ひ、同年九月十五日、廿二歲にて失せ給ひしを、當家も他家も押なへて、惜み參らせぬ者ぞなかりける」と。後天正十年十二月二十一日甲斐國郡代一萬三千石。十八年八月、上野國脈橋城三萬三千石。慶長六年二月、甲斐に移封、府中城を築き、義直の附屬となり國政を沙汰す。同十二年関四月、義直尾張移封に從ひ、犬山に移リ、六萬石を加へられ、十二萬三千石にて清須城に住す。十六年十二月峰日卒、年七十。弟「五左衞門正廣(金左奮門親正)金左衞門正當-同正次-同正信-半右衞門親庸(金左衞門、若狭守、丹波千三百石)」と又新家にては丸に張月、三雁金を家紋とす。3〓和源氏〓和源氏系圖に「義氏、(左馬頭、武藏守)-泰氏(宮內少輔、號平岩殿.家を繼ぐ)」と足利條を見よ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)