尾張
概要
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姓氏家系大辞典
又尾治に作る、又小治ともあり。尾張國名を負ひしものなるも、更に其の起原を溯れば、大和國葛城の高尾張邑より發せしが如し。卽ち尾張なる國名は尾張氏の移住に伴ひて生じたるものと思はる。其の說以下に詳說す。尾張氏は上古の大族にして一族顏る多く、分派の氏亦數多あり。猶ほ其の移住によりて生じたる地名も尠からず。ヲハリベ條參照。されど古代中古の尾張氏の後裔は、後世多く他の稱號苗字を稱し、近古以來尾張氏と云ふものは多く父の受領を子孫が稱號としたるものにて、全く系統を別とす、北條流、足利流、海老名流成田流等の尾張氏是也。尾張氏の濃尾移住。(歷史地理所載の舊稲)こ舊事紀尾張氏系譜の價値。德川時代、舊事紀の僞作なるを發見して以來(舊事紀僞撰考等)、此書の價値は俄かに減じて學者によりては「無をまされりとす」(久米博士)とまで極言する人あるに至りしが、又一七、其の編纂の古きと、(釋紀等に引用せされど異流和るを以て)他の史籍に一致する點多きとより、其の記事の一部に信用を置くもの生じ、當時なほ世に存せし物部氏、尾張氏等の舊記、或は國紀等の古書に據り、敷衍したるものなれば、一〓に排すべきにあらずと云ひ、漸く其の信用は復活して、今日にては多數の學者其の說を採用せらるるが如Lo淺學余輩亦其の一人にして、殊に尾張氏の系譜に對しては信據するに足るもの尠からざるを信ず。何となれば其の記事は記紀姓氏錄と吻合する點多ければなり。此處に於て、人或は曰はん、其は本末を顯倒せリ。其れ等諸書によりて此書を爲作せしにあらずや、吻合あるは當然のみと。然れども舊事紀全卷を精讀せよ、其の誤れるを直に悟るべし。卽ち陰陽本紀の如き、神祇本紀の如き、記紀兩書より盜竊して構成せる部分の如何に拙劣なるか、其の作者の如何に淺薄なる頭腦なりしかを。到底記紀姓氏錄によりて如斯系圖を僞作するに適せざるを。殊に本紀によりて齟齬矛盾せし點多くして、統一を缺きたる事は、偶〓以て此書の編纂當時存せし古書を點綴せしのみにて、爲作的に筆を弄せし點の動きをあらはすにあらずや。されど唯徒らに僞作せしものにもあらざるべければ、加筆せし點なきにあらず。卽ち物部尾張兩氏を同祖とせし如き之なり。又材料となりし原本其のものゝ誤りを傳へしもあるべければ、愼重に記紀姓氏錄と對照して錯誤せる部分を訂正せる後にあらざれば史料として用ふべからず。(三)尾張氏系譜の訂正舊事紀天孫本紀に「天照國照彥天火則櫛玉饒速日尊、亦の名は天火明命、亦の名は天照國照彥天火明尊、亦饒速日命と云ふ、亦の名は嗜杵磯丹杵穂命」と。饒速日命は天神にして、火明命は天孫なり(姓氏錄)、斷然別人とすべし。見天香語山命、天降り給ふ。名は手栗彥命、亦の名は高倉下命。」と。姓氏錄、左京神別尾張連の條に「尾張宿禰同祖、火明命の男、天賀吾山命の後也」また山城及び大和神別條に「天火明命の子天香山命の後、」とありて姓氏錄と吻合す。孫天村雲命、亦の名は天五多底。此の命は阿保良依姫を妻となし、二男一女を生to三世孫天忍人命、此の命は異妹角屋姫、亦の名は葛木出石姫を妻となし、二男を生む。次に天忍男命、此の命は葛木の土神、劔根命の女賀奈良知姫を妻となし、二男一女を生む。妹忍日女姫」と0姓氏錄丹比宿禰の條に「火明命三世孫天忍男命の後也云々(右京神別)、」また丹比須布條に「火明命三世の孫天忍男命の後也(左京神別)」とありて、れと符合す。「四世孫瀛津世襲命、亦は葛木彥命と云ふ。尾張連等の祖。天忍男命の子なり。此の命は池心朝の御世、大連となりて供奉。」と。古事記孝昭段に「尾張連之祖奧津余曾」とあれば、池心朝(孝昭)御世の人なる事確實、但し大連とあるは他に見えず。「次に建額赤命、此の命は葛城尾治置姫を妻となし、一男を生む、」と。姓氏錄丹比宿顧の條に「火明命三世孫天忍男の後也。男武額赤命云々(右京神別)」とありて、これと符合す。蘇世襲足姫命、亦の名は日置姫命、此の命は腋上池心宮の御宇、觀松彥香殖稻天皇(孝昭)、立てゝ皇后となし二皇子を誕生す。則ち天足彥國押人命、次に日本足彥國押人天皇(孝安)是れ也。」と。記孝昭段に「天皇尾張連の祖奧津余曾の妹、名は余曾 オハリ多本毘賣命を娶りて御子天押帶日子命、次に大倭帶日子國押人命を生む、」また孝昭紀に「世襲足媛、」孝安紀に「尾張連漁津世襲の妹也」とありて、記紀と吻合す。一様天戶目命、天忍人命の子、此の命は葛木避姫を妻となし二男を生む。」と。姓氏錄大炊刑部造の條に「火明命四世孫阿麻刀蘭命の後也」(左京神別)、また「同神三世孫天礪目命の後也」(右京神別)とありて、凡そこれと一致す。「次に天忍男命、大嫂壬部連等の祖。五世孫建筒草命、健額赤命の子なり。多治比連、津守連、若倭部連、葛木府直の祖。孫建斗米命は天戶目命の子なり。此の命は紀伊國造智名曾が妹、中名草姫を妻となし、六男一女を生む。」と。姓氏錄湯母竹田連の條に「火明命五世の孫建刀米命の後也云々」(左京神別)、また尾張連の條に「火明命五世孫武礪目命の後也」(右京神別)、また子部の條に「火明命三世孫建刀米命の後也」(右京神別)等ありて、これと一致す。「次に妙斗米命は六人部連等祖。六世孫建田背命は神服連、海部直、丹波國造、但馬國造等の祖。次に建字那比命此の命は磯城島連の祖草意富阿麻比賣を娶りて御子大入杵命、次に八坂之入日子命、次に沼名木之入日賣命、次に十市之入日賣命を生む、」又崇神紀に天の妃尾張大海媛、八坂入彥命、淳名城入姬命、十市瓊入姫命を生む、」とありて、三書殆んど一致す。されど、建諸隅命を池心宮御宇、卽ち孝昭帝の時代とするは誤まれり。妹の姫、崇神妃なれば、開化崇神帝頃の人とすべし。三世の祖滊津世襲は前述の如く孝昭帝の御代の人にして、又叔父建麻利尼命は垂仁朝に在りし(前に引ける姓氏錄)にあらずや。「八世孫倭得玉彥命、亦は市大稻日命と云ふ。此命は淡海國谷上刀婢を妻となし、一男一女を生み、伊我臣の祖大伊賀彥の女大伊賀姫をして四男を生む。」と。記孝元段に「比古布都押之信命は尾張連等の祖意富那毘の焼き葛城之高千那毘賣を娶りて子味師內宿禰を生む、」とある意富那毘は此の大稻日なるべし。「九世孫弟彥命。」と0景行紀の弟彥公なリ、後に云ふべし。蘇日女命。次に玉露山代根古命は山代水主雀部連、輕部造、藏宜部首等の祖。一〇四〇名草姫をして二男一女を生む。次に建多乎利命は笛連、若犬甘連等の祖。」と。姓氏錄湯母竹田連の條に「建刀米命の男武田折命云々」(左京神別)とありて、れと符合す。「次に建彌阿久良命は、高屋大命國造等の祖次に建麻利尼命は石作連、桑内連、山邊縣主等の祖。」と。姓氏錄石作連の條に「火明命六世の孫建眞利根命の後也。垂仁天皇の御世、皇后日葉酢媛命の爲に、石棺を作り奉りて之を獻ず、仍りて姓を石作大連公と賜ふ也、」(左京神別、攝津神別には武椀根命とあり)とありて、又これと一致す。「次に建手和邇命は身人部連等の祖。妹字那比姫命。七世孫建諸隅命此命は腋上池心宮御宇天皇の御世、大臣となりて供奉。葛木直の祖大諸見足尼の女子諸見己姫を妻となし、男を生む。妹大海姫命亦の名は葛木高名姫命。此の命は磯城瑞趣宮御字天皇立てて皇妃となし、一男二女を誕生す。卽ち八坂入彥命、次に渟中城入姫命、次に十市瓊入姫命、是なリ。trle記崇神段に「天皇云々、尾張連の祖高屋大命國造等の丹波國輕次に若都保命は五百木部連の祖。次に置部奥言命。次に彥臭曾命。十世孫淡夜別命は大海部直等の祖。弟彥命の子なり。次に大原足臣命は筑紫豐國國造等の祖。置部奥言命の子なり。次に大八埼命は甲斐國遺等の祖、彥與言命の子なり。」と。甲斐國造とあるは誤れり。國遺本紀に「斐陀國造、志賀高穴穗朝の御世、尾張連祖濱津世襲命の裔大八埼命を國造に定め賜ふ」とあるにより、斐陀と改むべしと、先輩既に說あり。「次に大縫命。次に小縫命。十一世孫手止與命此の命は尾張大印岐の女子眞敷刀婢をして一男を生む。」と。寛平二年の尾張國熱田太神宮緣記に「稻種公は火明命十一代の孫尾張國造乎止奥命の子なり。母は尾張大印岐の女、眞敷刀婢命也、」とありて、これと吻合す。其の他、姓氏錄河內神別の尾張連の條に「同神(火明命十四世の孫小豐命の後也、」とある小豐も乎止與なるべし。又國造本紀に「尾張國遣、志賀高穴穂朝、天別天火明十世の孫小止奥命を國造と定め賜ふ、」とあるは熱田緣記と符合すれど、成務帝の御代とするは誤れり。(こは後に云ふべし)。乎止與は誰の子なるか不詳。此の系圖十世までは父子の系を尋ぬるを得れど、此の處は然らず、疑問とすべし。蓋し誤脫あるか。「十二世孫建稻種命此の命は邇波縣君の祖、大荒田が女子玉姫を妻となし、二男四女を生む。」と。前に引ける熱田緣記と符合す。記應神段に「尾張連の祖、建伊那陀宿禰」神后の外祖父)とあり。又景行段に「尾張國造の祖美夜受比賣」(書記には尾張氏の女宮賣媛)とある方は、熱田緣記に「稻種公の妹、名は宮酢媛」とありて此の人の妹なるに、此の系圖に脫せるは不思議と云ふべLo「十三世孫尾綱根命、此の命は譽田天皇の御世、大臣となりて供奉す。妹尾綱眞若刀婢命、此の命は五百城入彥命に嫁ぎて品陀眞若王を生む」と。記應神段には「高木之入日賣命、次に中日賣命、次に弟日賣命、此の女王等の父、品陀眞若王は、五百木之入日子命が尾張連の祖建伊那陀宿禰の女志理都紀斗賣を娶リて生める子也、」とあれば、此の兄妹尾綱とあるは尻綱なるべLo果して然らば、姓氏錄若犬養富福の條に「同神(火明命)十六世孫尻調根命」とあるも、世數に差あれど恐らくは同人なるべし。「次に妹、金田屋野姫命。此の命は甥品陀眞若王に嫁ぎて、三女王を生む。則ち高城入姫命、次に仲姫命、次に弟姫命。此の三命は譽田天皇·竝に后妃となし、十三皇子を誕生+〇姉高城入姫命を立てゝ皇妃となし、三男二女を誕生。皇子額田部大中彥皇子、次に大山守皇子、次に去來眞稚皇子なり。妹仲姫命を立てゝ皇后と爲し、二男一女の皇子を誕生、荒田皇女、次に大當天皇、次に根鳥皇子なり。妹弟姫命を立てゝ皇妃と爲し、五女の皇子を誕生、阿倍皇女、次に淡路三原皇女、次に免野皇女、次に大原皇女、次に滋原皇女なり。(以上ほゞ記紀と一致す)。品太天皇の御世、尾治連の姓を賜ひ、大臣大連となし、尾綱連に勅して曰く、汝腹より產るゝ所の十三皇子等は、汝率て養ひ日足奉らんや。時に連·大に歡喜をなして、己が子雜彥連、外妹毛良姬二人を壬生部に定む。今に奉る人三口。此の連名請連名議二人以字辰枝中。今按ずるに此の民部三孫は今伊奥國に在りと云々。十四世孫尾治弟彥連。弟彥命置 葛本直通大諸見設計画谷上刀婢倭得玉彥富意見里葛城之高千郵覽賣次に尾治針名根連。」と。神名帳愛知郡に、針名神社、備前國御野郡に尾治針名眞着比女神社あり。「次に意乎己連、此の連は大雀朝御世、大臣と爲りて供奉す。十五世孫尾治金連。次に尾治岐門連は卽連等の祖。次に尾治知知古連は久努連祖。此の連は去來穂別朝の御世、功能臣となりて併奉す。十六世孫尾治坂合連、金速の子なり。此の連は尤恭天皇の御世、寵臣となりて供奉す。次に尾治古利連。次に尾治阿古連は太刀四連等の祖。」と。允恭紀五年條に、尾張連吾襲とある人に當る~60「次に尾治中天連。次に尾治多多村連。次に尾治弟鹿連、日村尾治連等祖。次に尾治多臭志連、大海部直等の祖。十七世孫尾治佐達連、坂合連の子なり。妹尾治兄日女連。十八世孫尾治乙訓與止連、佐迷連の子なり。次に尾治栗原連。次に尾治同古連。次に尾治枚夫連、紀伊尾治連等の祖」と。尾張家の本居は大和葛城なりてふ事は、先輩學者の既に考證されたる處なるが(古事記傳、姓氏錄考證、久米博士の古代史、吉田博士の地名辭書等參照)。故に、反復する要なきが如けれど、こは此の氏研究の重要問題なるを以て、勢なほ愚考を述べ、且つ其の時代を推定せざるべからざるなり。前に考定したる尾張氏系圖により、火明命より倭得玉彦にいたる略系を擧ぐれば左の如Lo (三)尾張家は崇神帝朝の頃まで葛城地方にありたり。建斗米-建田肯建宇那比建諸隅大磯城島連祖草名き-建多乎利建麻利尼(金仁明)建麻利尼(金仁明)一大海姬赤ち葛木高名姫-八坂入彥命崇神帝この系圖によりて、尾張氏は忍人命より倭得玉彥の頃までは、殆んど葛城地方の人と婚し、或は其の地名を負ふを見るべし。これ此氏が當時葛城地方にありしを示すにあらずして何ぞ。勿論古代とても遠隔の人と婚を通ぜざるにあらざるも、數世如斯は想像すべからず、況んや同地方なるをや。而し卽ち尾張て反證とすべきは一もあるなし。氏が後世の如く、古代より尾張國にありたらんには、其國人と婚し、或は其の地名を負ふ等、他氏の例と同樣、一二なかるべからず。而もなし。これによりて此の氏に當時尾張、其他にありたりと云ふよりも、遙に葛城地方にと云ふ方正當、且つ有力ならずや。殊に「高尾張邑、或本に云ふ葛城邑也、」また「高尾張邑云々、因つて號を改め葛木達姫-天忍人命天村天命明火天香1 |命山語雲命天戶目角屋姫南美酒木九六百-天忍男命(羊對期)濵津世襲あれあれま其. -建額赤-建筒草葛城尾治置姫世襲足姫-孝安帝孝昭帝葛木土神銀根命-賀奈良知姫て其の邑を葛城と曰ふ、」と尾張の名の、既に早く神武紀に顯はるゝあれば、尾張氏の本居の此の地なるや確實と云ふべし。而して倭得玉彥は建諸隅の子なれば、崇神朝か、垂仁朝頃の人とすべければ、少くも崇神帝の頃までは、此の氏葛城にありしを知るべし。(四川)尾張氏の美濃に移居せし事實。上述の如く、建諸隅までは、此の氏の人、代々殆んど大和葛城の人と幡せるに係はらず。其の子倭得玉彥、卽ち古事記に所謂る意富那昆は然らずして、淡海國谷上刀婢、及び伊我臣の祖、大伊賀彦が女大伊賀姫を妻とせ00如斯は唯單獨に考察する時は何等不思議の事にもあらざるが如し。大和の人の近江の女と婚する、敢て異とするに足らざればなり。されど其腹なる弟彦命等の美濃に在たる事實より、此の結婚を觀察する時は輕々に看過すべきにあらざるが如し。因りて以下先づ弟彥命兄弟につきて說かしめよ。(イ)弟彦命は建諸隅の孫なれば、世數より推考すれば、景行帝朝の人なり。而るに同時代に弟彦公てふ人見ゆ。卽ち景行紀に「日本武尊曰く、吾、善射者を得て、與に行かんと欲す。其れ何處にか著射者あらんか。或る者啓して曰く、美濃國に著射者あり、弟彦公と曰ふ、是に於て日本武尊、葛城の人宮戶彥を遣はして弟彥公を喚ぶ、」とある之なり。此の第彥公必ずや弟彥命なるべLo何となれば、時代を等くし、名を同じくすればなり。公とあるに疑を起す人のあらんもはかり難けれど、當時地方の豪族を呼ぶに公を以てする事尠からず、近き例を以て云へば、前に引きたる火明命十二世孫建稲種命を熱田緣起に建稲種公とあるによりて知るべし。猶ほ此の弟彥を武尊の喚び給ふにあたり、尾張氏の本居なる葛城の人を以て使とせられしは、其の間の消息眼前に見るが如きにあらずや、第彦公は、弟彦命なる事疑ひなLo (ロ)弟彦の第に若都保命あり。天孫本記五百木部連の祖とせり、五百木部は伊福部とも云ふ。姓氏錄に「伊福部宿禰(左京及大和)、伊福部連(大和)、五百木部連(河內)、伊福部(山城)等ありて、皆「火明命の後」と註し、これと一致す。和名抄美濃國池田郡に伊福〓ありて、大資二年美漁國山方郡三井田里戶籍、加毛郡半布里戸籍、其の他正倉院文書に五百木部氏、伊福部氏等多く見ゆ。又「尾張、美濃二國股富門を造る、伊福部氏也」と拾芥抄にあり。因りて若都保命の美濃と関係の淺からざるを知るべし。(故栗田博士は伊福部氏の本貫を美濃とせらる)。(ハ)彥奥曾命の子、卽ち弟彦の甥、大八埼は國造本紀によれば斐陀國造の祖なり。以上、弟彥、若都保、大八埼が美濃飛驒に極めて深き關係を有する事實を、倭得玉彥の淡海谷上刀婢との結婚に關聯して考ふれは.次の推定を得べし。「尾張氏は倭得玉彥(意富那毘)の頃より漸次東して景行帝の頃には其の嫡流美濃にありたり」と0 (五七八坂入彥命の東下。此の尾張氏の美濃称住と殆んど同時代と思はるゝ頃、八坂入彥命の東下あり。八坂入彥命は崇神帝の皇子にして、御母大海緩(記紀)は尾張連の祖建宇那比の女、建諸隅の妹なり。卽ち皇子と倭得玉彥とは從兄弟にあたる。此の皇子の美濃に坐せし事は、景行紀四年の條に「天皇美濃に幸す。左右奏して言く、玆の國に佳人あり、弟媛と曰ふ、客姿端正、八坂入彥皇子の女也と。天皇得て妃となさんと欲し第媛の家に幸す。弟媛乗興車駕を聞サハリ オハリき、則ち竹林に隱る。是に於いて天皇權に第媛をして至らしめ、而して泳宮に居る云々。(時に弟媛、天皇に請うて曰)妾に姉あり、名を八坂入媛と云ふ、容姿歷美、志亦貞潔、宜しく後宮に納るべしと。天皇之を聽す。仍りて八坂入媛を喚びて妃となし、古瓦女を生む。第一を稚足彥天皇と曰ふ云々、」とあるに因りて容易に知るを得べし。皇子の下向し給ひし時代は史籍に傳ふる處なしと雖、崇神帝の時ならずば垂仁帝の御代か、二代の外に出でざるべし。然らば則ち尾張氏の美濃移住と殆んど同時ならずや。是處に於て兩者の間に密接なる関係ありとせざるべからず、皇子は尾張氏の生み奉りし方なればなり。卽ち次の推定を得べし、曰く「尾張氏は崇神帝朝頃まで葛城にありたるが、其の時代、或は垂仁帝の朝に至りて自家の女(大海姫)の生みまつりし皇子八坂入彦命を奉じて東し、美濃に下りたり」と。時に此氏を牽ゐしは倭得玉彥か、弟彦、若都保は其の子にして美濃に止り、大八橋は其の孫にして隣國飛驒に行き、成務帝の御代斐陀國造に任ぜられたり。(普行明)〓建諸属-倭得玉彦一第彦-