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小(3)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

3武藏の庄氏新編風土記、兒玉郡本庄宿條に「按ずるに當郡七黨の内、兒玉黨河居の舊領なりし事は、巳に郡の總說にいへるが如し。その系圖に、兒玉庄太夫家弘の子庄權守弘高、庄三郎忠家、庄四郎高家、庄五郞弘方等あり。是れ當所を分ち領して、別に在名を唱へしと見え、弘高の子を庄太郎家長と稱す、」と。又本庄城(本庄宿)條に「宿より良の方なリ。東は土地窪く、南は宿の裏に續き、西は又少しく土地高く、北の雌下は小山川流る。此所は當國兒玉黨の〓流·世々住して庄を氏とし、又本庄とも名のり、子孫本庄宮內少輔に至ると云ふ。按ずるに兒玉庄太夫家弘が三男庄四郞高家は、元曆の頃、一の谷合戰に、平家の大將但馬守經政が述るを追うて首を得たり。同じ時、庄太郞家長も三位中將重衡卿を生取りて、共に其の功·世に隠れなかりし事、平家物語、源平盛衰記に出でたり。皆此所の住人と見えたり。又東盤に、仁治二年、本庄四郎左衞門尉時家、小林次郎時景が所從藤平太が妻女·路次を通りし時、彼の妻が乘りたりし馬、井に荷つけたるを二匹とも押し取りしかば、時景に其の事を訴へられ、同じき五月六日、宰判ありて、所帶を召放されし事を載す。此の時家も同族にて、こゝより出でし人ならん。兒玉系圖に、家長子を本庄三左衞門時家と載す。此の人か、さもあらば、其の子を七左衞門家房と云ひ、其の子太左衞門泰房、其の子太郞國房など云ふ。本庄宮内少輔はそれらが子孫なりと。宮内少輔は上杉憲政の家人なり當城永祿十年の春、小田原北條氏政の爲に落城し、天正十八年より、小笠原掃部大夫信嶺。其の子信之居り、天和巳來廢城とし、其の後新墾し、元祿十三年高入の地となれり。今もから堀の蹟、且つ本丸の趾など、わづかに殘れり」と。又新座郡橋戶村庄氏條に「先祖和泉守廉原秀永、足立郡新會村觀音寺に隱居し、しかも彼の寺を中興開基し、寛永十七年に死せり、これより前のことは、傳へざれば知るべからず。按ずるに庄氏は、武藏國七黨の内、兒玉黨にて、庄太夫家弘より出づ。家弘が子を庄槐守弘高と云ふ。その子庄太郞家長なリ。家長は、保元物語、東鑑等に事跡もあらはれ、當國の住人にては、ことに類屬も廣かりしなり。此の庄氏も、それが子孫なるべけれど、今その詳なることを知らず。和泉秀永と(阿佐美)云ふは、北條家臣庄式部少輔の一族などにや。同家太郞右衞門は、今も新會村に住す。忠右衞門の家は、いつの頃か、:ゝに移り、それより累世、この村にをれリ、古文書四通を蔵せり」と。又比企郡越畑垂は越畑村の四にあり。土人其の所を城山とよぶ。今は陸田となれリ、何の頃、何人の住せしと云ふこと詳なCP0或は庄主水と云ひし人の居蹟といへど、其の年代も定かならず。按ずるに、當國七黨の內、兒玉黨に庄權頭弘高などあれば、是等の後裔なるにや。小田原役帳に庄氏の人見えたり。又杉山村にも此の人の居蹟あり、照し見べし」と云ひ、又杉山員(杉山村)條に「中古上田氏の臣にて庄主水(或は杉山主水とも)と云ふ者住せし所とも云へり。按ずるに越村越畑村にも、庄主水が居住の地あり。是れ當國七黨の內、兒玉黨の庄情頭廣高、庄太郞家長等が子孫などにや又北條家人にも庄式部少輔、庄新四郞の名見えたり。若くは是等の一族ならん、」かと。又足立郡の庄氏は和泉守秀永の後裔にして、新曾村の名族也と。下野の庄氏中興系圖に「庄、藤原、兒玉有大夫廣行の四代、權正廣高·これを稱す。本國下野」と見ゆ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)

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