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寺澤(1)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

1紀姓池田氏の族にして、濃尾の名族也。傳へ云ふ、紀長谷雄の男淑望の子池田維實の後にして、廣正に至り、織田、豐臣兩氏に仕ふ。其の子廣高·秀吉に仕へ、肥前唐津六萬石を領す。關ヶ原戰後·十二萬石を領せしも、其の子堅高に至り、絕家。家紋蟹。藩翰譜に『志摩守紀廣高(初め忠次郞、一名は正成)は武内大臣の後胤、紀淑望が末孫なり。初め淑望が子孫·美濃國に住し、其の後別れて尾張の國に在り。兩國の寺澤は悉く其の後胤とぞ聞えける。廣高が父·尾張の國の住人越中守廣正、織田殿に隨ふ。其の後廣正、廣高の父子、豐臣家に仕へ、次第に身を起して、肥前の國唐津の城を賜る。八萬石を領す、一說三萬千三百石といふ。思ふに初め三萬千三百石にて、太閤·朝鮮を伐ち給ひし日、彼れが所領の地·名護屋に御陣を召されしかば、所領を加へ賜共に誅せらる」と常陸、陸前、羽後せて.八萬石に至りしにあらずや。又是より先き領せし地定かならず。或る說に丹波福知山二萬石を領せしと云ふ。唐津を賜ひしは天正十五年の後なるべし。多門院日記に「寺澤越中守は日本國の米奉行にて、六萬石の知行取り、太闇一段御目を掛け召し仕はれ候ふ六人の内なり。天正二十年九月、太閤の勸當を受けし」と見ゆ。朝鮮の軍に廣高先陣して、彼の國に押渡り、戰ふこと凡そ七年、太閤薨じ給ひてわら、慶長四年九月、島津が家人伊集院源治郞、主を恨みて、おのが城に立籠りしとき、廣高·島津を援く。明れば五年いれ、德川殿に從ひ參らせ、美濃尾張の間に戰ふ。其の勸賞に肥後の國天草の郡を加へ賜ふ(四萬石、合で十二萬石也)。寛永三年八月十九日、從四位下に叙し、同十年四月十一日に卒す。嫡子刑部少輔忠〓·父に先立つて卒しければ、次男兵庫頭堅高·家を繼ぐ。同十四年、肥前の國島原の凶賊、天草の群民等と共に起り、追討使を下さる。堅高·馳せ向ひて攻め戰ひ、明れば十五年の二月、島原の城·落つてけり。凶賊の張本人四耶男は、天草の住人なりければ、堅高も罪蒙つて天草の地を收公せらる(四萬石を召放され、領八萬石をば賜ひしなり)。堅高·これを口惜き事にや思ひけん。幾程なく自害して死しければ家絕えぬ』と豐艦に寺澤越中守、また長崎實錄に〓高·長崎奉行の職に任じ、慶長七年に至る、凡そ十一年」と見ゆ。廣高この大任を帶びながら、征韓の役に從ひしは、疑なき能はず。案ずるに父廣正は慶長元年正月、七十二歲にて卒す。されば奉行職は廣正最初其の任を受け、廣高は父の職つぎしなるべし。又廢絕錄に「今度天草KT、一撰蜂起の事は、政道·乘弱の故なり。其の罪·死に當ると雖も、身命を抛ち、力戰する由上に達する間、天草領四萬石を召し放さる者也」とあり。而して堅高の自殺は、正保四年十一月十八日、年三十九歲にて、減祿の後十年なり。されば口惜き云々とはいかゞ(内藤聡叟翁)。又香宗我部記錄に寺澤志摩守監高。又廣島淺野藩士寺澤半平は、廣高の姪、千石を食み、弓隊長たりしとぞ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

系図・系譜

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