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宿野(1)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

攝津國能勢郡に宿野莊あリ、後字多院御領目錄に「攝津國宿野莊、守主の事に座して仕を止られ、やがて剃髮して、不染入道と號し、通世して當國に下リ住みしが、後召されて再び頼經に仕ふ。其の子左衞門行時も將軍家に仕へたりしに、世かはりて宗尊親王に仕へ、其の子二郞左衞門光則(按ずるに鎌倉志に光則寺は大佛へ行く道の左にあり。此處を宿谷とも云ふ。相傳ふ、平時賴の家臣宿屋左衞門光則入道四信が宅地なり。昔日蓮龍口にて首の座に及ぶ時、弟子日朗、日心の二人、檀那四條金吾父子を光則に預け給ひ、土籠に入らると。是によれば親王家に仕へしと云ふは疑ふべし)。光則の子三郞行岩、行岩の子三郞行惟まで、親王家に奉仕し、行惟の子四郞重顯より將軍尊氏に仕へ、其の子與市儀重に至りて、武藏相摸の內にて、知行七千町の地を領し、將軍義證、義滿に從ひて、應永の頃、泉州に於いて大内義隆と戰ひて、しば〓〓軍功あり。其の後、子孫世々將軍家に仕へたりしに、儀重七代の孫近江守重近の時より、小田原北條家に屬し、其の子大和守重則·天正年中、氏直より當國入間郡つた、宿谷、權現堂、葛貫、市場、下川原、大久保、熱川、女影、八ヶ村所領の書出を奥へられしと云ふ。北條氏沒藩の後は、郷士となりしにや詳ならず。重則より四代の後、權左衞門重本、大猷院殿に仕へ奉りて、後宿谷に住居し、寛文十年十二月廿四日五十五歲にて死」とあり。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)

系図・系譜

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