宗彌二郞(8)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
8室町朝期の宗氏藩翰諸に「助國が子右馬允 茂は太宰府に在り。其の子右馬尤賴茂、建武三年五月、將車尊氏卿に隨ひて、筑紫より攻め上り、攝津國和田の御崎の戰に、大勢の敵を討ち破り、勸賞として九州の侍所を承り、又刑部少輔に任ず。世の人·鬼刑部とぞ申しける。朝鮮の書に、宗慶と記せしは、此の賴茂が事なり。賴茂が法名を宗慶と云ひしなり。其の子右馬大夫尙茂(朝鮮の書に謂ゆる靈鑑は、尙茂が法名なり)。頭註に『經國入道宗慶、賴茂入道靈艦、武鑑には此の二代ありて、本文の法名を記する事、かくの如し。而して經國を鬼刑部とし、貞茂を賴茂の子とす。然れ共、系圖備考も、本文と同じ、何れが正しきや』。其の子讚岐守貞茂が時、應永廿六年六月廿日、異賊當國佐護〓に襲ひ來り、貞茂がために打ち破られ、散々になつて逃げ歸る。系圖に、此の時の事をも、蒙古襲ひ來ると記せり、誤れるか。此の年は明の太宗永樂十七年に當り、朝鮮も世宗莊憲王の元年なり。大元亡びて五十二年に及び、高麗亡び朝鮮となりても、二十三年になむね。凡そ我が朝の人、異賊をむくりこくりと云ひしは、蒙古、高勾麗の事なり。蒙古則ち大元にて、高勾麗は高麗の昔の名なり。此の頃は兩國共に亡びて跡方もなし何所の國の賊船にやありけん不審と。日蓮註書讃にも「應永廿六年六月廿日、蒙古高麗一同、軍船一千三百餘艘、對島に押し寄す云々」と。又皇代略記にも、同年「六月廿日、蒙古軍船、對馬に寄せ來る。廿六日、九國軍兵合戰、蒙古打ち負け、七月二日、悉く退散」とあり。貞茂の子讃岐守貞盛、父に繼ぎ、嘉吉三年、始めて朝鮮と相約し、歲每に船五十體を彼國に渡して、あきものを交易す。彼の國の王、又年每に米豆各二萬石を此の島の主に送らる。時に朝鮮莊憲王正統八年の事也。其の子刑部少輔成職權ぐ。成職卒して嗣なし、貞盛が弟盛國が子貞國を嗣とす。貞國驅いで讃岐守に任じ、我が國より朝鮮に行く船は、必ず對馬の國に來て、守護の符を受けて渡ること、此の頃よりぞ始まりたりと。嚴原町〓玄寺歷仁三年十月二十二日の鐘名に「國主惟宗朝臣貞國」と見ゆ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)