宍戶(5)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
5長州の宍戶氏失戶系圖に「家政(左衞門尉。知家第四の男。常州宍戶邑を領す、玆により始めて失戶を以つて氏と爲し、宍戶四郞と稱す。駿馬ありて、玉簾と號す。建曆年中、和田合戰の時、義秀と戰ひて琵琶橋に死す。家譜、舊記に云ふ、鄰を以つて軍幕、並に衣裳の紋と爲す。今其の紋を見るに、世俗の所謂る洲活也。相傳へて云ふ、洲濱の形は六字に似たり、家政の先は、六孫王より出づるを以つて也)-時家(伊賀守、和歌を能くす爲)、弟家周(四郞、壹岐守、家政の嫡子)-家氏、弟家宗(初め太郞と稱し、後に左衞門尉。家周の長子)-知宗、第知周、弟家時(初め五郞と稱し、後左衞門尉、法名道知、家宗の嫡子)-家義(六郞)、弟知時(初め四郞と稱し、後に安藝守に任ぜらる、法名性知)-朝家(從五位下、安藝守、常州宍戶莊より、封を藝州富田郡に徒し、乃ち其の郡内甲立村五龍城に居る) -基家(遠江守)-家秀(安藝守)-持朝(從五位下、備前守。永享元年より長祿三年に至る、治家凡そ三十一年) -興家(安藝守。長祿三年より文明十年に至る、シシト二七五〇治家凡そ二十年。二男元重は左近大夫と稱す。子孫あり、南·莊原氏と稱す。三男元久は强正と稱し中所氏の家を嗣ぐ。子孫ありて今に至りて存す矣)-元家(左衞門尉、兼安藝守。治家凡そ三十二年、文明十年より永正六年に至る。乃ち五龍城を嗣子元源に讓り、退いて深濶〓視尾城に居る。後に深邇郷を次男彈正忠隆兼に授く。是より其の子孫は深淵氏と稱す) -隆兼(彈正忠と稱す。元家に隨ひて深瀬〓に住し、後に深瀬彈正忠と號す。其の子孫今に至りて尙ほ存す矣)、弟家俊(宍戶又四郞と稱す。備中國に至りて住す焉。兵法を嗜み、魔法の衞を受け、勵精勞思し、以つて通力を得。其の譽·世に顯はる。自ら司簡と號し、遂に洛陽愛宕山に登り、現身、魔界に入リ、太郎坊の眷屬と爲る。今の愛宕山司簡像は是れ也)その妹は粟屋越中の妻、及び佐々部兵部のなり。次に「元源(元家の嗣子。初め雅樂と稱L.後に安藝守と號す。永正六年よリ天文七年に至る、治家凡そ三十年、天文七年十一月二十二日沒、法名一叟道〓。)-元良(彌三郞と號す。弘治三年八月廿一を嫡子の元源に護り、別に此に城居す。其の後隆兼(元家の二男、彈正忠)、家成(深瀬式部)、直良、三人相續いて居守す。田中に茶園の跡あり。今その遺種を存す。香氣殊によしと云ふ、」と見ゆ。毛利元就記に「甲立を領する宍戶安藝守元盛と云ふ人あり、代々五龍の城に住居也代々毛利と武勇を爭ひしが、元就·失戶と和平し、元盛の嫡子隆家を聟に約し給ふ」とまた安西軍策に「失戶安藝守の嫡子宍戶雅樂頭隆家」また「宍戶安藝守隆家嫡孫備前守元好」また雲州軍話に一宍戶安藝守隆家は美保關取出の付城を構へ、丹後、但馬の船路を斷つ、」また三國地志に「伊勢國阿濃郡三塚、備前守宍戶元繼が墓なり云々」など見ゆ。また、これより前、大内氏實錄に「永正十二年、五日市の失戶治部を首將として、櫻尾城に據る(古文書、房顯記)」と又見聞諸家紋に、展州濱安藝の宍戶又山軽郡海應寺村刈屋田に失戶備前の宅址あり。又貫心流解法の祖司筩尖戶家俊目は、享年廿一、法名桃名淨源)、弟隆忠(元源第二の男、宍戶の家老末彙氏の家を嗣ぎ、末兼朝四郞と稱す。故ありて隆家の爲に誅せられ、其の靈魂·崇リを爲し、屢々人をして惱亂せしむ。〓人大いに恐れ惑ふ爲。遂にこれが爲に腐を建て、劔大明神と號す。今に至りて尙ほ存す焉)。次に元良の子隆家(彌三郞、左衞門尉、兼安藝守と稱す。大江朝臣毛利元就の女を娶り、毛利家を助けて壓々軍功あり。文祿元年二月五日沒、法名天叟覺隆。その妹は口羽氏、春良の妻、子孫あり)一元秀(左衞門尉と稱す。法名祖雲玄翁。母は毛利元就の女。球は伊豫大守河野通信の大、後に宮原大方と號す、法名天祐榮春、號春松院、母は元就女。其の妹は吉川治部少輔元長の妻、母は同じ。其の妹は藝州中納言大江朝臣毛利輝元卿の室、法名妙逝、號〓光院、母同じ)-元續(嫡〓8.彌三郞と稱す、備前守に任ぜらる。母は内藤下野守の女。世々藝列五龍城に居り、戰功の故を以つて、中納言譚元卿、益し賜ふに備中國後月郡を以つてす。後慶長甲子の役、西國の軍敗績し、毛利家の領地、大いに蹙まり、幾かに防長の兩國を存す。此の時、元續亦隨ひて地を喪ひ、藝州より防州三尾莊に徒る。其の賦稅一萬石。子孫·今に至りて領す爲。寬永八年辛未七月二十五日沒、享年六十九、法名岩叟道嶙)-廣匡(初め彌三郎、後に出雲と號す。毛利元〓の女を娶る。元〓は毛利元就の子にして、毛利甲斐守秀元の父也。寛永八年辛未八月二十二日沒、法名盛山宗隆)-就尙(彌一郞、雅樂、越前)-就〓(忠三郞、雅樂、土佐)」と。次に「元續の妹は雲州三澤爲虎の妻。その弟元盛(修理大輔と稱す。其の外祖内藤隆春の子となり、其の嗣となる)、其の弟孝春(五郞左衞門、粟屋氏の家を嗣ぐ、)其の第景好(初め彌三郞、後に掃部、又但馬と號す。法名古銀宗快)、其の弟元可(初め吉藏、後に左衞門尉)、その妹は毛利輝元痾·養ひて子とし、箕前金吾中納言に嫁す。沒して後、洛陽興門跡准尊上人に嫁し、男子女子多し矣。水戶中納言家卿·其の第二女を納れて妻となす、今の播磨守某の母也、)其の弟元眞(民部、元秀第五の男也。天正十五年三月、太闇豐臣·筑紫に赴き、薩摩を伐たんと欲し、旗を備中兄部川に駐す。毛利輝元·元眞をして己に代りて太閤に謁せしむ。太閤·大いに其の專對の美を感じ、乃ち藤吉の吉を聽され、吉内と稱し、殊に御腰物を賜ふ。其の銘は兼光なり。且つ輝元の官を進め、中納言と爲すを約す。元眞もまた諸大夫に任ぜられ、老年·家を讓りて退き淨賀と號す)」と。元眞の子孫も亦榮ゆ。此の宍戶氏は代々毛利藩の重臣にして、大夫の家たり、福原、益田等と相並ぶ。武置に「宍戶備前、失戶播磨」等見え、又その裔·一は子爵を授けられ(その子功男)、宍戶乙彥は男爵を授けらる。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)