安東(3)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
3秋田安東上國家なり、秋田湊に據る、三に賴良を安東太郞とするものあれど、猶ほ藤崎系圖には「阿部頼良の于、貞任の兄良宗に注して「安東太郞、早世」とし、六、で「貞任-高星-堯恒」とし、堯恒に「藤崎領守、安東太郞」と註す。又秋田家譜によるに「堯恒の後胤貞秀より以下代々安東太郞と號す。」貞秀より堯秀-愛秀-堯勢-貞季と相續し、貞季に二子あり、兄盛季下國家と稱し、弟鹿季淺(上國)家と稱す(株田、阿倍、上國、下國、湊等參照)。又津輕志留邊に「昔安部貞任が二男高星走りて津輕に至り、藤崎に居る、卽ち邑主と爲り、其後代々安東を稱し、元享中、安東五郞三郞藤崎城に居城せしが、從弟又太郞と境目の爭よりして合戰に及び、五郞三郞は亡び又太郞も亦亡びて、安東太〓季の舍弟藤崎伊勢守が領する處となる」とo安東氏が阿倍姓なる事は蓋し誤りなかるべLoされど、賴良貞任の祖が安東と稱せりとの說は、恐らく後世の附會に過ぎざるべく,又安東氏が阿倍貞任の後裔なりとの說も確證なければ斷定するによしなし。されど鎌倉時代に於いては津輕に安東なる强族のありしや疑ふの餘地なく、その血系より云へば、或は蝦夷酋長の後裔なるやも計り雖けれど、早く阿倍姓を稱せしなれば古代阿倍氏と密按なる綠故を有すとせざるべからず。五郞三郞、又太郞の事は保曆間記に二九十二年の春、奥州に安藤五郞三郞、同又太郞と云者あり。彼等が先祖安藤五郞と云者、東夷の堅めに義時が代官として津輕に置たりけるが末なり。此兩人相論ずる事あり、高責數々賄賂を兩方よリ取りて兩人へ下知をなす」と 0また諏訪給詞に「元享正中の頃より、嘉曆年中に至るまで、東夷蜂起す。根本は曾長もなかりしを、武家其濫吹を鎭護せむがために、安藤太と云ふ者を蝦夷菅領とす、其の子孫に五郞三郞季久、又太郞季長と云ふは從父兄弟なり、嫡庶相論の事ありて合戰數年に及ぶ」と0また異本伯耆卷に「奧州津輕の住人安東又太郞季長、同郞從季兼と、又三郞と云者、所領の事を論ずる子細あり。兩方訴へけるに、高資賄賂にふけり、理あるを非とし、悪ざまに下知しければ兩方下知を背き、合戰に及ぶことあり。此の安東と云は、義時が代に夷島の押として安藤が二男を津輕に置ける、彼等が末葉なり、」とて、鎌倉幕府の失政中有名なる事なり。されど其の系園を詳かにしが後秋田と稱す。アキタ、アベ及び上國條を見よ。柞山志に、「安東五郞兼季は津輕十三湊に住し、康永の始め、足利尊氏よリ秋田比內三郡を賜はり、齋孫實季の頃には此の檜山に居城す」と載せ、又新風土記に「豊卷古城(河邊郡)一名白花城は安東備中守秀村の住する所なり、元龜天正頃秋田城介實季に從ひ、子孫佐竹氏に仕ふ」と見え、又男鹿名勝誌に「脇本城は一名太平城、元亀天正の頃安東五郞脩季の居城なり。」と。永慶軍記に馬場目安東五郞季定あり、秋田實季の一族也。
尊卑分脈(記事名の出現頁・OCR照合)
- 『本朝尊卑分脈』(洞院公定撰、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[5]:89頁
系図綜覧(記事名の出現頁・OCR照合)
- 『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション)第二:33頁、116頁
- 『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション)第2:31頁、114頁
- 『系図綜覧』(国書刊行会編、1915、国立国会図書館デジタルコレクション):265頁、348頁
新撰姓氏録考証(記事名の出現頁・OCR照合)
- 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)上(巻1-10):80頁
- 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)下(巻11-21):164頁
- 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)巻之2:20頁
- 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)巻之1-10:110頁、300頁