安宅(鮫島流)
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概要
関連文献
姓氏家系大辞典
5鮫島流鎌倉時代佐女島氏東國より來りて阿多郡·官領の地頭となる。島津家文書に阿多北方地頭などあるは此の家なリ。宮崎村貝から崎城に據る。阿太アタ又回臨に作る。和名抄大和國宇智郡に阿陁〓(隨の音濁體すべし)と、又伯耆國日野郡に阿太〓あり。「阿太別」氏は前者より起る。垂仁帝の裔和氣氏の族にして古事記垂仁段に「大中津日子命は阿太之別、云々等の祖也」と見ゆ。前條氏に同じ。信濃に英多庄あり、アガタ條良城は永正の頃安宅甚五郞の居城にして數世の後三好長慶の弟攝津守冬康其家を續ぎしより、三好氏の一族となると。又同國炬口城は大永の比安宅二郞三郞入道の居城と云ふ。何れも皆賴藤の裔なるべLo冬康の後孫を河内守猶重と云ふ。天正九年織田氏に歸降し所領を放れ、熊野知原に退き安宅に死す。猶重の子を玄蕃尤重俊と呼ぶ。早く死す。其伯父左近丞春定家を繼ぎ、安宅川邊四十餘〓を頷す。天正十三年豊太閤南征の時歸降して千八百餘石を領し秀長卿に屬す。其後石田三成に與し三成滅亡の後浪人す。初春定其弟信定を子とす。信定子なし。其弟重春を嗣とす。重春秀賴公に屬し大阪落城の後勢州鳥羽に發す。其子左近介、羽より潜に當村に歸住し佐左衞門と改め代々此地に住し地士に命せらる」とaまた名草郡府中杉尾明神社條に「相傳安宅權頭と云ふ人、阿波より此に來リ住す。聖武帝駐蹕のとき權頭阿波の杉姫を召て寵せらる」と。また牟婁郡生馬村條に「此地永正年間、安宅大炊助俊判の領地なりし」と、村中山王社の棟札に見えたり。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第1巻』磯部甲陽堂(1942年)頁不明)