安墨
表示
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
美作の名族なり。東作誌に「安黑氏略系(室山城城主安黒之裔)『姓氏錄』曰、安曇宿禰、海神綿積豊玉彥神子穗高見命の後也。三十九代天智帝の御宇將軍阿曇の比羅夫、河邊の百枝を大將として百濟を救はしむ。阿曇を阿墨又安墨と書る事古書に見ゆ(後年安積とも書す。綿積より出臣姓、朝臣足羽臣後にアスケサ-アスハアスミ三 アスミ-アセアセ-アセカハアセカハ-アセチ三し故なるべし)嘉吉元年辛西六月、赤松滿祐、將軍義〓公を弑し奉リし時、赤松が子左馬介と安積九郞二人して義〓を引張初害す。玆に依り同九月諸將播州白旗の城へ向て赤松を攻殺す。安積九郞は遁れ氏を變じ安壘の文字の土を省き安黑を氏とし、忍て作州苦東郡林田の〓の山谷に蟄し隱る今に其地字を安黑谷と云ふなり)。此時赤松氏も變姓するもの三十六家と系傳に出ず赤木と改るもの多し)。二十年許經て九郞死せリ。其子幼少なるを倶して、九郞が寡婦二階堂某に嫁すと云ふ。(二階堂は藤原氏なリ。故に安黑家是より藤原氏と稱す)。以上或人所藏の古書儘を擧ぐ。阿黑和泉守藤原久重、雲州神戶郡領主、天正年中尼子に背き、宇喜田落去の後作州北高田庄に移る。此時豬股采女と連枝たるにより、共に作州に移り毛利の旗下となる。天正六年二月十五日死、法名慶翁常勝大禪定門、高野山彌動院に神主あり、」と見えたり。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第1巻』磯部甲陽堂(1942年)頁不明)