守貞
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
牛若奥州下の條に「その時上野國松井田と云ふ所に一宿せられけるに、家主の男を見給ふに、大剛の者と覺えければ、後平家を攻に上られける時、語らひ具し給へり。伊勢國の目代に連れて、上野に下りけるが、女に附きて留れる者なれば、伊勢三郞と召され、わが島帽子子の始めなれば義の字を盛にせんとて義盛と附け給へり、」と。義經記には「吾親にて候ひしものは伊勢國二見の者にて、伊勢のカンラヒヨシツラ(義連)と申す、太神宮の神主にて候けるが罪科によりて上野國中島と申す所に流されまゐらせ年月を送る」とあり。或は云ふ義盛の父俊盛は三重郡々司なり、沒して後平家の士伊勢守景連なるもの其采邑を沒收す、義盛鈴鹿山に隱ると云ひ、或は三重郡福村の人にて、義盛二見〓に移リ江三郞と稱す。或は鈴鹿山中に入リ燒下小六と號し後東國に赴くなど、種々の說あり。義盛の活動は平家物語、源平盛衰記に多く見ゆ。(牡若伊賀名所記に據るに伊勢三郞義盛は幼少の時伊賀國三郞村長井にありしとも云ふ)東鑑卷四、五には伊勢三郞能盛とあり。19小笠原流小笠原系圖に「長基-政康-光康(伊勢六郞、左衞門佐、遠江守)」と。一本伊那六郞に作るを良とす。20島津流島津家臣に伊勢氏あり、伊勢長門、天正中、日向諸縣郡八代城の地頭となる。後島津一族此の家を襲ぐ。島津系圖に家久の子息貞昭(幼名截壽丸伊勢準人兵部少輔貞昌養子)とあり。21神作鞍鐙相承系圖に伊勢上野介貞安子上野介貞弘、初め與一左衞門尉と云ふと。三國地志云ふ。「按ずるに小向の領主にして歷世此に居住する歟、其の本貫詳ならずといへども、伊勢を以て稱するもの、本國に所由あること必せり、又新九郞早雲は射和村より出ると云、並せ考べし」と。22吉備の伊勢氏備中府志に「享德二年に伊勢新左衞門尉行長、後月郡荏原六ケ村三百貫の領主にて、伊勢國より入部すと0其裔新九郞氏盛、後長氏と改め、康正年中一族新左衞門隆資に城を附與し、羈旅の身と成て、一旦決然として諸州を巡り、今川家に寄寓して、終に伊豆國を領す、隆責は井上、平井等をば臣下となし、高越の城主となる。嫡男兵藤次盛勝、二男豊後盛秀、其男新左衞門高清、相續き城主たり、後毛利家に屬し退轉す」と。今長享將軍江州動座着到を見るに、備州伊勢掃部介盛頼、同彌八盛慶、備後伊勢又七等を載せ、康正の造內裏段議引付に伊勢氏が美作北高田莊神戶〓、備後國志厚利庄等を領せし事を載せたり。されば備中の伊勢氏が中央伊勢氏の一族なるは事實なれど、伊勢新九郞が此地より出でたりなど云ふは容易に信じ難かるべし。23下總の伊勢氏相馬郡文間明神舊神職を伊勢平大夫と云ふ、社領五十石。24肥後の伊勢氏相良文書建久八年間六月の球磨郡田數領主等目錄に、多良木村百丁、沒官領、伊勢彌次良(不知實名)と見ゆ。如何なる人か。25佐々木流(佐々木古志氏流)佐々木系圖に(古志)重信-勝信-伊勢千世と見ゆ。近江に伊勢氏ある事廿八項に云ふべLo 26北條流後の北條氏は其の家格を高めんが爲に、鎌倉執權職たりし北條氏の稱號を冒して北條氏と稱し、遂には高時以下の系圖を作るに至りぬ。卽ち豆相記に「北條家中興伊豆早雲、俗