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守宗知五

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

たた には卷四に「中納言藤房をば常陸國に流して、小田民部大輔にぞ預けられける」と、治久の事なり。治久は時知の曾孫、宗知の孫、貞知(貞宗)の子とす。次いで卷六、關東勢上洛の條に小田常陸前司、卷十四、直義方に小田中務大輔、卷廿七、師直の屋形に集る人に小田伊賀守、卷廿九に小田左衞門五郞等見ゆ。多くは此の小田氏の族と考へらる。治久は北畠親房が常陸に至る際、之を迎へて一時王事に盡せしが、後賊軍の盛なるを見て、賊將高師冬に降る。其の子孝朝嗣ぎ、鎌倉の基氏が芳賀兵衞入道禪可を下野に攻むるの際、先登して禪可を敗る。功を以て文中二年信太庄を加賜す(圓密院文書)。同庄大村崇源寺應安五年の鐘銘に、檀那として孝朝の名を載せたり。又香取廳安海夫注文に「ふつとの津、した一方小田知行分、あんちうの津、小田知行」と、信太庄内なり。次いで鎌倉大草紙に「嘉慶元年丁卯五月十三日、古河住人野田右馬助、囚人一人搦道す。此の男白狀して申けるは、小田讚岐入道父子、小山若犬丸同意に野心ありて、若犬丸隱置の由申す。此の小田入道專尊は先年小山退治の先手に參り、忠功の人也、何の恨ありて敵と同意有やらんと疑ひ、六月十三日小田が子二人召預られ、七月十九日上杉禪助大將にて常陸の小田城を攻められ、小田井に子息二人、家老信太某、小田を落て男躰山に稲籠る)云々。明る康應元年五月廿二日、小田井子息孫四郞召出されける。嫡子太郞を那須越後守にあづけらる」と。この事、喜連川判鑑には「嘉慶元、三月、小田五郞が一族等野心を起し、失戶男體の城に楯籠る」と見ゆ。次いで禪秀入道亂の時(應永廿三年)「常陸には名越一黨、佐竹上總介、小田太郞治朝、府中、大掾、行方、小栗云々」と。治朝は孝朝の子なリ。また小田宮内少軸と載せたり。治朝の子は持家にして、當時·千葉小山等と共に關東八館の一たり。其の子朝久は大草紙に「享德四年閏四月云々、此の陣中に寄手小田持家の子息朝久

系図・系譜

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