子鶴(8)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
8奥州の五條氏餘目記錄に「斯波殿、五條 3一緒に(七郞左衞門、矢部左馬頭、加藤清正に仕ふ、加藤家士帳、知行高五百十八石)-長安(矢部七郞左衞門、寛二郎、筑後大淵に還る)-良政長兵衞、清原三說、母は高畠角内の女)、弟賴安(矢部七郞左衞門)-賴昭-賴永(寶曆三年正月、家號を五條に復す)-賴直(五條岬)」と栽せ、筑後國志には「賴永-賴房-賴直-賴綱-賴長(五條岬)」とあり。賴元は、石島系圖に、また「朝師、大學博士、少納言、備中守、延元年中、後醍醐天皇三宮に供奉し、初めて九州へ下向。三宮の崩御後、筑後の内、矢部、花巡、湯之向、劔退、大淵、黑木を切リ取り、領分の内八里に居城す。筑後內矢部村の五條山·是れ也、」と載せ、又事蹟通考に「延元三年秋、懷良親王·征四將軍に拜せ西海道を經略し給ふや、頼元をしられ、て之が輔佐たらしめ、金鳥の旗を賜ふ。四年春、鎭四に來り、豐後玖珠郡に居り、筑後河島莊内·矢部、大淵等を領す。正平十八年九月九日、筑前三奈木の莊、日向飫肥南北兩郷の地頭職を賜ふ(令旨·これ有り)。二十年剃髪して宗性と號す。二十二年五月二十八日(尊卑分脈には二十二三三〇之を聞き、驚き嘆き、官を辭して去る。周く諸州を流れ、其の所在を尋ね、赤竹駒邑に到=て之を得。其の事を武日に告げ、相携へて歸京す。一若·後に昭次と號し、中納言に任ぜらる。本吉郡氣仙沼邑羽黑權現社は、乃ち昭次卿の創建する所也。此の事、土俗の傳說、警者の野曲、以つて信用するに足らずと雖も、姑く邑人の傳ふる所を記す也」との傳說を載せ、又奥南有指錄に「元德元弘の比、後醍醐院の王子(尊成親王)の供奉·五條前大納言、櫻町宰相、川村少將、此に配流せらる」と。而して、斯波殿は、五條大納言の子孫なりと云ふ說あり。怪しむいく9讚岐の五條氏謙倉買記に、琵琶法師傳を引きて、「阿波、讃岐、淡路の在廳の中、五條太郞菅原定實 讚岐に居る」と載せたり。10豐後の五條氏第十二項〓原流五條氏にして、日田郡高瀬に居りしと云ふ。國志に石井〓高瀨村に在リ、一五條塲永正中、矢部邑主五條兵部少輔〓原鑑量、來り築きて據る焉。普門寺に鐵西王の墓なる者あり。按ずるに鎭西王は、憫良親王也。親王は肥の八代に薨ず。里人の口碑·疑ふべし」と。11立花氏流立花系圖に「十三代親家、五條氏と稱し、伯耆守」に作る。12清原氏流〓原〓元の後なり。キヨハラ條參照。賴元は、懷良親王に隨ひ、上妻郡矢部山高屋城に據る。孫賴治、後の將軍良成親王を奉じ、一族·勤王につくす。甚だ大なり。五條は卽ち矢部を云ふとぞ。五條系圖に「賴業(穀倉院別當、助〓、直講、博士、大外記)-良業(大外記)-賴尙(大外記、主水正)-良秀(穀倉院別當、主水正、大外記)-良枝(同上)宗尙·····子孫在朝廷發別當夫人生1は筑後す5左馬7左馬頭抽選由額賴元-良氏太君、道に良量6良興良永本日1賴經春日頼顯方面治部大韓ume野啓瑞大夫4種左馬良遠-賴治筑後守:ト覽賴重-賴明肥南大夫各外型夫高屋振9 9 10 -良邦T良續-良祐-鑑量-鎭定產左馬頭六重大大馬國1竹野郡THE山本山三原竹및臺評內價良泰内側鎭永邦興高等原里人の口一日に作る)、三奈木莊に於いて卒す、年七十八、法名無礙宗性。阿蘇家所藏に、賴元の征四將軍の宮に從ひ、九國に來るを載せたる者あり。其の一二を擧げ、證と爲す。又賴元の書簡·數十通あり、令旨等の奉書には勘解由次官と書し、自狀は多く假名書にて、唯賴元と書す、皆·花押あり、左に記す。『當年、井に同心人々の恩賞の事。注進に就いて、其の沙汰あるべきの旨、綸旨を下さる云々。然らば、今更何の豫議あるべき乎。但し宮の御下向、勘解由次官賴元眞人·供奉せしむるの間、勅命を蒙むる旨ある歟、(以下略)。七月二十九日)刑部大輔秀仲奉。阿蘇大宮司殿。』『賴元·此の境に罷リ下リ候以下略。十一月二十一日。阿蘇大宮司殿。賴元花押』云々」と見ゆ。その居城につきては、筑後國史、上妻郡大淵村高屋城條に「五條氏代々の居城にして、天正の頃、左馬頭これに居る。其の先は、五條三位俊成卿より出でたり、(此の說·誤れり)。應安年中、五條何某·征四將軍の宮に供奉して、肥後國に下る。其の子孫·當城を築きて代々これに居る。今柳川藩の臣と成りて、大淵村に住す。山鐵砲頭たり。家實に後醍醐帝康翰、日輪の旗、綸旨口宣、將軍家御〓書、秀吉公御朱印、大友家の感狀等を傳ふ(明覽)。由來記に云ふ『五條大納言〓原朝臣、征西將軍宮に供奉して、西國に下向し、矢部村を領し、城を當村に構へて住す。夫より呼びて五條矢部と號し、其の子孫を矢部殿と稱す。黑木家沒落の後、加藤侯を賴みて、肥後に住す。加藤侯落去の後、立花侯を頼みて大淵村に住す』と。又西國城館集に『矢部七郞左衞門、南矢部村高屋城に居る』と天正領主付には、左を右に作る、云々」と見ゆ。その他、九州五條家は、武時花押文書に五條殿、異本太平記、延文四年の大原合戰段に「五條大外記、子息主水正、」また五條家文書に、良量及び賴治を「五條左馬頭、」元中十一年十二月十九日左少將奉書に「五條左馬頭、」下つて大友義統判書に「五條千菊殿、五條千壽殿、」等、頗る多し。また小野村内宮權現、大永三棟札に現後大名分の衆、一五條殿、」領主附に二(天武天皇末)五條七郞右衞門(左馬頭、一に左衞門)、矢部(高友)栗原城に居り、百五十町を領す」と。また鏡山文書等にも見え、子孫·立花俟に仕へ、大淵村に住む。明治に至り、五條賴定(筑後八女郡)·先祖の功を以つて男爵を授けらる。13雜載その他、平家物語に「五條の橘次末春と云ふ金商人、云々、」キツジ條を見よ。また東鑑卷二十一に「五條七郞太郞」等あり。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)