嫡子(1)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
五〇六二を廢し、庶子に家を離がせんと乞ふ。因て封地を收められ、七日二日、嫡子市十耶賴重に千石を賜ふ」とあり。又新撰美濃志に「慶長の頃は平岡石見守の領知なりしとぞ。平岡石見守重定は、はじめ秀吉公の近臣なりしが、政所の御連枝故金吾中納言秀秋卿を取立てゝ大名になし給ふ時、彼の卿に附屬を命ぜられ、長臣となる。然るに卿·闇將にて、不行跡なりしかば、老臣稻葉八右衞門正成、堀田勘左衞門正利等、數人·疎みはてゝ立退きけり。平同一人·智勇を以つて諫言して有りしかば、麻·小早川の養子として筑前を領せられし時、平岡に三萬石を給ふ。秀秋卿滅亡の後、平岡は召出され、美濃の德野にて一萬石下され、御家人となる。子息定當に家督を給ひて石見守と稱す。其ののち定當亂心して、不行跡惡行ありしかば、領知召しあげらる。されども其の父重定の忠節を以つて、定當の子息市十郞賴重に新知二千石を下され、御菓子に忠動す。賴重老後まで實子なかりしかは、有馬右衞門佐入道(假宿)の三男伊織を養子とす賴重死後、延賣元巳年十二月十二日家督し、のち平岡和泉守と稱するよし、古今武家盛衰記に見えたり」と。頼勝-石見守賴資(定常、重勝、牛右衞門)-市十郞賴重-信濃守賴恒(阿波守、和泉守、二千石) -主殿頼雄-對馬守與資(信濃守)-美農守賴長(對馬守、和泉きいにして、五千石を領す。家紋五鑞の内に九曜、三輪違。其の他、寛政系譜に十四家を收む。ふ·其の子「内記頼成-同右衛門道成-圖右衞門千道」也。家紋九曜、丸に十文字紋。寛政系譜には「溝杭左兵衛資元-源大夫資光(河内國平岡〓にありて平岡を稱す〕-右兵衞尉資行-對馬守資俊(溝杭)-左兵衞資房-左太郞資講(平岡に住)-左兵衛資義-石見守資〓-因幡守良〓」と見ゆ。一族·山梨、巨摩等に存し、又二宮文書に「平岡樵其齊宗壽(慶長六)、平岡勘三耶を載せ、又寬永の頃、郡代に平岡次郞右衞門和由(帶刀良知の男)あり、釜無川の水を引きて渠を造り、二十七村一萬八千石の地を潤す。その男勘三郞良時也。千道の裔は「千道-岡右衞門吉道-同道益-同道智-沖之丞道利-勝三郞道央-岡右衞門道忠」にして、幕末、平岡丹波守道弘あり、家封五百石、嘉水、安政の빅、江戶の官府に出入し、動勞多く、文久年中、擢きんでられて若年寄と爲り、遂に慶應三年、一萬石の大名に列す。幕府の末季にあたり、稀有の仕進なり。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)