夫大(2)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
2後の秩父氏後世、秩父を稱號するもの頗る多く、又有名なる人を出せり。保元物語、官軍勢汰の條に「武藏には云々、高家に河越、師岡、秩父武者」と。また平家物語に「秩父云々」と見え、源平盛衰記に「秩父十郞重弘、秩父十郞武綱、」また「秩父武者四郞行綱、」又「武藏國多胡郡の住人·秩父二郞大夫重澄」などを載せ、東鑑卷八に秩父三郞重〓、三十二に秩父左衞門太郎、四十四に秩父彌五郞、その他秩父平次五郞等見ゆ。以下各項を見よ。而して新編風土記に『上世には當郡より貫馬を奉りし牧ありしこと拾芥抄にも見又承平官符に云ふ「八月十三日、武ます三八六円藏秩父牧御馬貢之云々」と。古は其の邊に住する武士を撰みて、牧の奉行とせしもの別當に任ぜらるきこと、式にも見へて當國に限れり。されば治承養和の頃、秩父庄司別當重能ありき。武家の世となりて胸牧も廢しければ、自ら別當の任官も絕え果たり。牧場の舊址も傳へざれど、郡中野卷村こそ、古への野牧の跡にして、何れの頃よりか、牧を卷に轉じたるならん。"さて郡中大内澤村、御常村の邊にて、土人が語れるは、「往昔、桓武天皇の御子葛原親王の猶子恒望といへるが、左遷せられし地なる」ことを傳へ、恒持明神の緣起にも載せ、其の遺蹤·今村名にも遺れる由を傳ふれども、桓武平氏系圖に絕えて見へざれば、据用することなけれど、因つて考ふるに、陽成天皇の御宇、多治比眞人武信といふ人·故有りて、當郡中へ謫せられたることを、彼の家の系圓に載せたれば、若くは此の說を附會して、土人等が誤り傳ふるならん。されども此の人は當郡にて沒したるに非ず、年經て歸京せり。此の武信が五代の孫武經といへるが當郡中へ來住し、秩父郡を領せし三八六円と云ふこと系圖に見え、此の人の四代の子孫より分流して、源、中村、黑谷、岩田.井戶、野上、白鳥、小鹿野、藤矢淵等の丹の黨繁延して、北條氏邦に屬する迄傳領せしは、先祖武經に始まれり。されど恒持庄とて、今に數村にて唱ふれば故あることにや。村岡五郞平良文が、上州綠野、平井より秩父に移リ、又其の三代の孫將恒(一に常に作る)此の地に來住し、武基、武網、重綱、重弘、重能、重忠に至る迄、連綿として住せしが、重思·右大將家に屬せしより、居を男衾郡島山へ移し、夫れより畠山次郞と名乗りけ30また重忠が別種同氏なるあり、是れは平兒玉保義が弟を、重忠が曾祖父重綱養ひて、秩父平太行重と名乘らせけり。其の子秩父武者四郞行綱は、壽水三年二月七日義經の手に從ひ、一の谷の戰の時に、庄太郞家長、安保次郞實光、久下次郞重光と同じく、摺手口の先陣に進みしこと東鑑にも見へ、夫れより秩父三郞重〓、同平太行俊、同左衞門太郞經重、同彌五邸重行等に至り、建長の頃迄、同書に見ゆる所なり。遙に世を歷て北條氏邦に屬せし秩父孫次郎などいへるは行重が後孫なるべし』と。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)