大隅(4)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
4鍋島侯かくて天正十二年、隆信·有馬氏を伐んとて、五萬餘騎を引具し、高來郡に向ひ、島津中務大輔家久がために敗られ、島原にて死し、其の子民部大輔政家·幼なれば、家臣等信生を佐賀の城に迎へ入る。これより幼主を助けて、自ら加賀守直茂と改め、天正十五年、秀吉·島津を征伐のため、筑紫の地に下るや、直茂·政家と共に、其の陣に馳せ參じ先陣を勤む。直茂·眞先に、薩摩の國に攻め入り、島津氏降りて、九州二島悉く平ぎ、政家、直茂に龍造寺が本領を賜ひしが、政家いまだ年若ければ、直茂·政務を沙汰すべきよしの仰を受け、其の後政家が家·絕え、直茂·國主となれり。政家·此の後四位の侍從に上りて卒し、三男駿河守高房を、直茂·養ひて子とせしが、それも二十六歲にて死し、高房が子季明·訴ふる事ありて、奧州會津に流され、六十三歲にて死し、龍造寺が家·長く絕ゆ。内藤聡叟氏曰ふ「天正十八年、政家·病を以つて國を直茂に傳へ、子高房を直茂の子とす。然れども直茂·憚リて龍造寺と稱せず。慶長十二年十月、政家卒、年五十二歲。高房後に窪田五千石を分たれて龍造寺氏を稱す。曾て舊領を鍋島が奪ひしと訴ふる事あり。大坂陣の時、高房·別に軍せんとす。直茂止て麾下に屬せしむ。高房·怨り、江戶に至つて自殺す。其の子季明も又訴ふる所ありしが、流罪となるに至ると、元和筆錄に見ゆ。されど寛政譜には、高房·慶長十二年九月卒、廿二歲とあり。父に先だつ一月なり、如何」と。又一に「天正十二年、民部大輔政家魯鈍なれば、鍋島加賀守、土居出雲守·政事を共和し、軍事には、鍋島·家中の將士を帥ひて、政家の代官たり」to又肥陽軍記に「天正十五年、鍋島信生(直薄公·高良山在陣」と。又「神代刑部大輔長良、鍋島直茂と戰ひ、後直茂の猶 子家長を婿とす」と云ひ、又參河後風土記に鍋島信濃守勝茂、豐遙卷四に鍋島加賀·等見ゆ。文祿の役、直茂·加藤主計頭〓正と共に、王城に攻め入り、成鏡道を從へ、再征には、秀吉に召され、蜂須賀阿波守家政、安國寺惠項と三人·朝鮮の軍奉行となる。關原の役、直茂が子息信濃守勝茂·大坂方に屬し、伏見城を攻め落し、伊勢國安濃津城をも落して、同國松坂の城を攻む。直茂·これを聞き、大に驚き、下村左馬助を使として、德川方に屬せしめ、甲斐彌左衞門尉を、家康の陣に送り、又久納市右衞門尉を黑田甲裝守長政の陣に遺はして、罪を謝せしむ。家康·これを免し、九州に歸り、柳川城を攻めしむ。かくて勝茂·まづ久留米城を降し、柳川に向ひて、立花と戰へり。加賀守直茂·八十一歲、元和四年六月三日に卒し、信濃守勝茂·權ぎ、寛永三年八月、四位の侍從、同十四年冬、同國高來郡鳥原逆徒·原城に立籠りし際、勝茂の長男紀伊守元茂、三男甲斐守直澄·父の軍勢一萬餘人を率して馳せ向ふ。明十五年春正月元日の役、鍋島勢·討死三百八十騎、手貢ひ四百餘騎、雜兵の手負死人二千五百人に及びしとぞ。二月廿一日の役、敵の首百餘を得しも、秀島四郞右衞門尉·討死す。後違に城を落す、勝茂父子の功·莫大なり。勝茂·七十八歲にて、明曆三年三月廿四日に卒し、嫡子肥前守忠直·父に先立つて率し、嫡孫光茂·家を繼ぐ。光茂·度安元年十二月廿二日元服し、松平の號、諱字を賜ひ、從四位下に叙し、丹後守に任ず。明曆四年二月·侍従、其の子信濃守綱茂なり。寛政系譜、及び武鑑に「直茂(初め信安、信眞、信昌。龍造寺隆信の子政家の嗣となり、龍造寺氏三十五萬七千石を相續す) -勝茂(初め〓茂、伊平太、信濃守、侍從)-思直(翁助、肥前守、侍從、早世)-光茂(翁助、丹後守、侍從)-綱茂(左衞門、信濃守、侍從)-吉茂(初め矩茂、直利、彈正、左衞門佐、丹後守、侍從、實は光茂二男、綱茂の弟)-宗茂(初め直董、主膳、信濃守、飛驒守、侍從、實は光茂の男吉茂の弟) -宗〓(初め〓茂.萬吉、丹後守、侍從)-重茂(初め直亮右平太、信濃守、實は宗茂の男)-治茂(初め直熙、肥前守、侍從、左少將、中將、賣は宗茂男) -齊直(肥前守、侍從)-齊正(貞丸、直正、信濃守、侍從、肥前守、左少將、閑叟、議定、從二位、權中納言、大納言。明治四年正月十八日薨.五十八、贈從一位)-茂實(肥前守、侍從)」と「齊直-直正-直大-直映」にして、肥前佐賀三十五萬七千石。明治二十一萬三千七百六十石、賞二萬石。現今侯爵、家紋·蘘荷丸、桐。佐賀鍋鳥藩翰譜に「龍造寺左衞門大夫信生·人に語りしは、元龜元年八月十九日の夜大友が陣に忍び入りて、相圖の時を待ちし程に、彼が杏葉の紋·曉の燒火に移りて、鮮かなるを打眺め、あつばれ、今夜勝軍したらんには、取りて我が紋とせん者をと思ひしが、思ひのまゝに勝軍す。且は當家の吉例のため、今より我が紋とすべしとて、劍菱を改めて、杏葉の紋とぞしたりける」と。閑叟公は松原神社に奉祀す。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)