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大津山

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

肥後國玉名郡大津山より起る。屈指の名族なり。大津山系圖に「藤原資名(日野大納言、正二位、建武五年五月二日薨、年五十二、鎌足二十二代之孫權大納言日野俊光の子)-時光(日野家祖)·弟資基(大津山河內守、資名の季子也。責名故ありて足利尊氏と善し、故を以つて資基足利家に屬し、始め河內國古市莊に居る。足利義滿授くるに肥後玉名郡白間莊内を以つてす。應永二年十二月、大津山に來り、外目村木屋塚に居る。明年城を大津山〓〓广系居城と爲し、大津山と稱す。家紋五段梯四目結也)-經澄(河內ず、正長元年熊野權現社を赤版に造營し嚴宮と稱す。南關記)-經稜(河内守)、弟經方(掃部頭、修理亮)-重經(掃部頭、美濃ず、弘治四年五月、家臣野中孫七郞に與ふる文書あり、南關町醫野中性朴家藏) 1秋(修理亮、始め名經眞、剃髮して湖春と號す。連歌を善くし、三池壽林と名を齋くす。色木山に別館を構へて隱居)-資冬(河內守、弟に盛實あり)-家稜(河内守)-祐直(関右京、家稜害せらる、祐直時に年三ツ、家人等抱育、筑後に隱る。後立花宗茂に仕へ、子孫尙存。南關記に實永頃、關吉兵衞、三池龍助、津山七左衞門等、其の子孫也)」と。又家稜の第に信濃守家直あり、子孫肥前にあり。責冬は始め大友氏に屬し、後龍造寺氏に從ふ·天正七年、龍造寺に背き、五月蒲池鑑廣と約して、龍造寺安房守家治を白島陣に破る。此の月家治、資冬を討つ。資冬以爲らく萬嶽城は小勢敵を防ぐ宜しからずと、便ち大田黑神尾城に移る。家治乃ち衆を將ゐて來り圍む。資冬門を開き突擊、大いに戰ふ。家治又政れて四肥に歸る(菊地傳記、九州記蘇一二宮を祀る、始め葉山に在り、資秋晶嶽麓に遷す。社内十一面觀音厨子の銘に「大檀那大津山河内守資冬、云々、天正九年辛巳十月吉日〓白、」と。家發は三百十二町を領す。天正十三年島津家に屬す(島津家傳)。此の歲十二月、家臣近延某に名一字を奧ふる讃書あり(南關記)。十五年冬、佐々成政に叛き、神尾城に據る。成政家入傳七、生駒於千を遣はし、僞りて其の望を許し、約して、吉地村淨滿院に會し、遂に之を殺す(佐々傳記、南關紀聞)。中原雜記に十六年四月八日、持勝院に於いて害さると、敦れ是なるを知らず(事蹟通考)。事蹟通考また云ふ。別本に「菊池經隆の子合志五郞經明、其の子經遠、其の子次郞經邦を大津山の祖と爲す、」と。代々軍功、戰跡等、詳かに之を載す。僞妾の言信ずべからず。又今、關孫兵衞、關勝兵衞も大津山末裔也と。藤崎一宮太刀の銘に「元國作、大津山彈正資宗」と。なほ此の氏の事、肥後國志にも多くあり。筑後の大津山氏上妻郡本村の中に館山と云ふ山あり。道の傍にあり、古人の館跡に信オホツホ オホツルオホツル-オホテウオホテシ-オホテラ一二二六や〇此所に住みける大津山氏は、古き家な乙四日千藏と云ふ者子無かりし故、豐前小倉より渡邊甚五衞門と云ふ者を養子とせしに、後に本國に歸り、再び仕官せし由、其八時家の棟に俵に入て有ける古文書を小倉へ持參し、委しく點檢せしに、系圖などもありて、なべてならぬ家筋故、今も大津山を名乘れる由なり(筑後國史)。小田條參照。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)

系図・系譜

関連論文

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