大彌(7)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
7吉備氏の氏神吉備津彥神社は、神名蜈、備中國賀夜郡に吉備津彥神社(名神大)を收む。また備前國に吉備津宮あり、國帳に「一品吉備津彥命宮、坐津高郡」と共に兩國に於いて、各々國の一宮たリ。其の他、上道郡に從五位上吉備津岡辛木別神あり。又備前一宮大藤内家の社說に據れば、「備前吉備津宮は彥太郎殿、備中の宮は彥九郞殿にて、備後の宮は彥三郎殿と稱す」とぞ。內備中の一宮·吉備津神社は大吉備津彥命を祀り、吉備郡眞金村に鎭座せらる。その社傳(正六位上左大史賀陽朝臣宗成、從六位上備中權博士賀陽朝臣眞宗等、天安中に之を記すと云ふ)に「活目入彦五十狹芹尊(垂仁御諱)即位五年、百濟國王温羅·子族を以つて、日向に赴來り、轉じて吉備國に赴參り、城を窟山に築き、天鬼を集華して之に籠る。帝京に納るゝ所の稅租を奪ひ、國中に美女あれば、則ち之を娶り、數十人を集めて産業す。故に國民大いに之を苦しむ。樂々森彥命·播磨に至リ參りて告ぐ。大命(大吉備津彦命)驚き聞こして、卽ち馳せ降り臨留す。靈臣·迎へ奉り方山宮に座して、中山茅宮に移座せしめて軍議す。乃ち兵を發し實城を攻む。而も鬼族·敢へて屈せザ。乃ち兵を片岡山に進めて射戰云々。大命·白羽を發す。則ち敵箭來りて處空に相中し折れ散る。時に一幡あり、日文·翻りて異確の上に降るあり。大命·乃ち御友別命と鴨別命との二神を遣はし、陣して彼の磯を護らしむ。時に異神あり、告げて曰く、臣は是れ中山主神也。是の如くせば則ち徒に白羽を失ふ耳。宜しく二白羽を挾みて放つべし。則ち一は故の如く虚空に相中り、喰ひ合ひて落ち、は必ず敵を射るべし焉乃ち其の〓に隨ふ。果して言へる如く、一は慮空に相中リ.喰ひ合ひて落つ、矢噛神社是の跡なり。一は乃ち往き飛びて温羅の肩を貫く、天鬼之を視て四方に散ず云々。時に二神は彼の日文の幡を擧げて後を遮り、大命は劔を按じて之を逐ふ。湯羅·通れんと欲して處なく、則ち叱聲·雲霧を曳き、降雨を起す、鉾の如し。櫻波は山腰を穿ち、洪水して海と爲る。温羅、其の際に逃 、浮沈游行鯉の如し。大命·左右を顧みて曰く、誰か能く之を繋がむと。樂々森彦命·命に應じ、水を游ぎて之を逐ぶ樣は鵜の如く直に搏つて之を捕へ、大前に誘ふ。温羅·命に伏し、諸神を饗す云々。齋殿を中山の林間に營し、甕を居 え、大いに祈るなり。之に因りて國中無事なり。大命御壽二百八十有一歲、中山南の嶺に陵す(貞持·云ふ、里人茶うす山と)。大命の御曾孫·加夜臣中津彥命の嫡男奈留美命、彼の齋殿の地に一社を造り、大命の荒靈、及び七神を安んじ、是れを内の八神と曰ふ。次に營元の弟宮を改め、大倭根子彥太瓊天皇(孝畫御諱)の奇靈、及び七神を安置す。是れを母登能宮八神と曰ふ。(貞持云ふ、今本宮とたゝへまつるは、元宮とかきて、はじめのみやとよみ、後にもとのみやとよみてより、誤リて本宮とかきしを、ほむくらとたゝへ申せしなり。むかし本宮と申せしは、正宮をさしてぞ申せし)。次に元營の新宮に御子吉備武彥命を安置す、東山新宮是れ也。後賀陽臣守麿·七神を安置し、是れを新宮八座と曰ふ。次に又一社を營み、大命の內妃を安置す(並に內妃の御兄弟七神を祭る)、是れを內宮八座と曰ふ。次に地主神巖山大明神社を營み、是れを吉備津の五社と曰ふ。次に一社を營み、橋築山磐の奇靈を祭る、一章社是れ也。正宮を除き、以下の四所を合せて五攝社と曰ふ。之に因りて國中無又日ふ、鳴動神置は温羅の幸家也。大命一夜夢み給ひ、温羅命告げて曰く、國中·事あれば則ち大竈の前に立て、鳴動して事の吉内を告げ奉らん云々。是れ鳴動御氣色の所緣也、」と見ゆ。當社は天下の大社なれど、古傳と思はるヽもの殆んどなし、惜しむべきかな。其の位置、並に賀陽氏が後世まで祠官なるに照し、加夜國造の宗祀なりしや明白ならん。蓋し吉備氏族の宗家たりし上道臣衰徵せしにより、當社最も盛大となりしものと考へらる。カミツミチ、カヤ條參照。伯耆國日野郡に樂々福神社二社、同じ村に存す。一は宮内村の東宮の廻りと云ふ處に、他は西馬場の筋に、川を隔てゝ鎭リ座し、東の宮の祭神、今は若建吉備津彥命、大日本根子彦太項命、細姫命、福姫命、合祭倉稲魂命。四の宮は大吉備津彥命、大日本根子彦太瓊命、細姫命、彥狹島命、及び倉稻魂命、大山祇命を合せ祀り、伯書志には一西村產土神、樂々福大明神、祭神大日本根子彥太理尊、左細援命、右彥狭島命、」と載せ、社傳、神宮寺緣起、民諺記、民談記等より、「彥太重尊、皇后細媛命、皇子齒黑命(彦狹島命の亦の名)と共に、當國へ行幸有りて、皇化を恢弘し、邪鬼を征討し給はん爲めに、まづ當郡笹苞山に座まし、山中邪鬼の巢窟を覆し給はんとして、河源を遡り、南方に進みて、上菅生山湯原等の地を歷玉ひ、終に鬼林山より大倉山の麓に於いて、邪鬼を斬リ殺し給ふ。是れより河を渡りて四方に進み、細屋村に至り給ひ、爰にて皇后に會し給ひて、是より東北に返り、笠置村大宮村を歷て、再び南方に進み、此の地に行宮を建給ふ。即ち河水を隔て東村に天皇御座し、四村に皇后御座ます。其の頃、備中に蟹魅師と云上者有りて、皇居を襲にむとす。齒黑皇子、霞〓に関を置き、是を待ち給ふに、魁師戰はずして降參す。後皇后、此の地に薨去し給ひければ、是を眞禮峯に葬奉る。今社の良位三丁許に窟あり、是れ即ち其の御墓なリ云々。」と載せ、「此の天皇、當近年の御擧曾て史書に所見なし。こは孝靈天皇の皇子大吉備津日子命、若建吉備津日子命と共に吉備國を治平し給ふ因に、當國をも經歷し給ひしものなり。そを誤りて御父天皇、並に皇后の事となせるか」と記すも、社の名稱樂々福より見れば、前遠備中吉備津彥神社記に見ゆる樂々森彦を祭りしものかと考へらる。斯くの如き類は、中國地方、他にも多かりしならんも、多くは隕減して傳はらざるは惜しむべし。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)