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大彌(1)

提供: 氏族家系データベース

概要

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姓氏家系大辞典

-キヒ一九二一 吉備を御名に負ひ坐せる皇子は、單に大吉備津日子、若日子建吉備津日子のみに限らんや。景行帝の皇子にも吉備之兄日子王のあるにあらずや。思ふに紳武帝以後、此の朝に至る五代、京畿の形勢·略ぼ定りて、漸く四周に中央勢力を發展するの機運に向ひたるべし。而して、吉備は西九州に至るの要路を占め、一方山陰を抑壓する、形勝の地たり。卽ち此の地の安否は、四國全體の運命を制すと云ふを得ん。よりて此の發展の機運に際し、先づ手を下すべきは吉備たりしにて、第一に此の御代、大吉備諸進命の派遣となり、次いで兩吉備津日子の派遣となりたるが如Lo但し史缺けて事蹟傳はらず、惜しむべきのみ。孝靈天皇には五皇子あり。孝元帝は皇后の御腹にして、他の四皇子は蠅伊呂泥、〓伊呂杼、姊妹兩妃の生み奉る處、卽ち日子刺肩別命、比古伊佐勢理毘古命は姉腹、日子寤間命、若日子建吉備津日子命は妹腹なり。但し以上は古事記の所傳にして、書紀は少しく異なれり、卽ち彥五十狹芹彦命(姉腹)彦狹島命、稚武彥命(姉腹)の三皇子とせり。内·日子刺肩別命は古事記のみに見えて他になく、且つ同記に「日子刺肩別命は高志の利波臣、豊國の國前臣、五百原君、角鹿海直の祖也」として、其の子孫を擧ぐれど、國前臣は、國造本紀が、國前國造を吉備津命の裔とし、五百原君は姓氏錄に稚武彥命の後とす。又角鹿海直も、角鹿國造角鹿直が若武彥の後なれば、此も若武彥の後裔とする方穩當ならんか。卽ち古事記が此の皇子の奇として傳ふる氏々は、他の傳によれば若武彥の後たるなり。因りて思ふに、此の命は若建彥命の亦名なるを誤りて、別皇子となしたるなるべきか。比古伊佐勢理毘古命は亦の名を大吉備津日子命と云ふ。書紀には「亦の名·吉備津彦命」とあり、蓋し吉備津彥とは、「吉備ノ彥」の意にして原始的の氏及び姓の一種と見るべく、一人の名とすべきにあらず。記孝靈段に「大吉備津日子命と若建吉備津日子命と、二柱相副へて、針間氷河の前に、忌養を居えて、針間を道口と爲し、以つて吉備國を言向け和げ給ふ也」と卽ち知る兩皇子は、大吉備請進命に次いで、吉備の經營に從事し給ひしを。書紀には此の事なくして、崇神紀に「十年九月丙戌朔甲午、大彥命を以つて北陸に遣はし、武渟川別を東澤に遣はし、吉備津彥を西海に遺はし、丹波道主命を丹波に遣はナニ因りて以つて詔して曰く、若し〓を受けざる者あらば、乃ち兵を擧げて之を伐てと。既にして共に印綬と授け、將軍と爲し給ふ云々。未だ幾時もなく、武埴安彦と妻吾田媛と反逆を謀り、師を與して忽ち至る。各々道を分ち、夫は山背より、婦は大坂より、井に入りて帝京を襲はんとする時、天皇·五十狹芹彥命を遣はして、吾田媛の師を擊しめ給ふ。卽ち大坂に遮りて、皆大いに之を破り、吾田媛を殺し、悉く其の軍卒を斬る」とあるを以つて、學者·多くは此の吉備津彥を以つて、大吉備津日子命に當つるものあれど、余の見解は然らず。前述の如く吉備津彦とは、原始的氏姓と見るべきものにして(日本上代に於ける社會組織の〓究を見よ)、既に若建吉備津日子と申すも又吉備津彥の御一人にあらずや。故に單に吉備津彥とあるを、總べて大吉備津日子命御一方とするは福狹の見と云はざるべからず。且つ此の條に吉備津彥と、五十狹芹彥命とを並べ書する上より見るも、同人とは思はれざるなり。然らば則ち此の吉備津彥と、孝重段の兩吉備津日子とは、如何なる關係に立つか。此處に於いて、余輩思ふ、恐らく、こは兩吉備津日子、就れかの御子にして、其の子孫の調査より見れば、若建吉備津日子の御子となすを最も穩とすべし。孝靈皇子の大吉備津彥の御子孫は、孝靈段に「大吉津日子命は吉備上道臣の祖也」と見ゆれど、上道臣は書紀の應神卷、並に國造本紀等、樓、て若建吉備津日子の子孫となすより見れは、大吉備津彥の子孫は早く絕えしものなるべし。此に反して若建吉備津日子命の子孫は大いに榮えて、上古より中古に亘りて、第一流の大族たるもの尠からず。故に吉備氏族と云ふも、主として此の皇子の裔なるを知るべし。日子寤間命は、書紀、舊事紀共に彥狹島命とあり。而して豐城入彦命の孫にも、別に彥襲島ありて紛はしきも、全く同名異人なればよく〓〓注意すべし。此の子孫に播磨宇自可臣あり。若建吉備津日子は書紀に、稚武彥命と記す。御兄五十穗芹彥命、卽ち大吉備津日子命と共に吉備を經營し、御兄大吉備津彥は歸京し給ひしも、(そは崇神紀に此の命が吾田媛を打ちし事實によりて知るを得べし。吉備津彥神社社記に「大命·御壽二百八十有一歲。中山南嶺に陵あり」とある如きは、荒謬不稽信ずべからず)。此の命は止りて吉備諸族の祖となり給ひしが如し。此の外、舊事紀には、猶ほ弟稚武彥命と云ふ皇子を、稚武彥命以外に擧ぐるも、こは、孝靈紀を誤體して盜竊せる結果に過ぎざるなり。次に崇神紀の吉備津彥は稚武彥命の子にして、四道將軍の一人なるが、猶ほ崇神紀六十年條に「出雲振根を誅する」の記事あり。また播磨風土記に見ゆる吉備比古と云ふも此の人に當るか。同書によれは、其の妹の吉備比賣は景行帝の皇后印南別媛の母たるなり。此の風土記の傳は、古事記の「吉備臣等の祖·若建吉備津日子の女·針間の伊那毘能大郞女」とあると說を異にす。風土記にては、丸部臣等の始祖·比古汝弟と吉備日賣との間の御子とすればなり。次に吉備津彦の子を吉備武彥とす。僂建尊に從ひて大功を建つ。武尊の御母は伊那毘能大郞女なれば、武彥は尊の外戚に當り、猶ほ武尊は武彦の女なる吉備穴戶武媛を妃となし給ひぬ。次に武彥の子を鴨別命とす。仲哀帝の四狩に從ひ、熊襲を打ちて又大功あり。神功紀に「吉備臣鴨別を遣はして、熊翼國を擊たしむ。未だ決辰を經ずして自ら服す焉」と見ゆ。その後、應神天皇は其の妹兄媛を寵し給ひ、吉備葉田華守宮に幸し給ふ時に鴨別は兄の御友別と共に、其の子孫を率ゐて奉黌す。天皇·其の謹惶侍奉の狀を看て悅び給ひ、吉備國を割きて、其の子弟一族を封じ給ふ。卽ち書紀に、「固りて吉備國を割きて其の子等を封じ給ふ也。則ち川島縣を分ちて(御友別の)長子稻速別を封ず、是れ下道臣の始祖也。次に上道縣を以つて中子仲彥を封ず、是れ上道臣、香屋臣の始祖也。次に三野縣を以つて、弟彦を封ず、是れ三野臣の始祖也。復た波區藝縣を以つて、御友別の弟·鴨別を封ず、是れ笠田(臣の誤寫)の始祖也、卽ち苑縣を以つて兄浦凝別を封ず、是れ苑丘の始祖也。卽ち織部縣を以つて兄媛に賜ふ。是を以つて其の子孫·今に僂建 河内圖志紀郡人從七位下岡田毘登稲城等の四人に、姓を吉備臣と賜ふ」と見ゆ。もと吉備臣より別れし人なるべし。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)

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