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大埼氏(1)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

條參順。「羽州には、の事也、最上修理太夫政家と、伊達の勢と相挑んで、一日に七度、見るめが原にて戰ふ」と、政家は兼賴の子孫なるべし。その居城山形は「天平年中に大野東人·築き給ふ」と、印役村太神宮の綠起に見えたりと。續日本紀によれば「東人·奥州賀美郡よリ新に道を開き、出羽最上郡玉野に至る」とさて此の家は、天正中、「義光(出羽守)の時代に至り、最上村山兩郡内、不服の諸家を削夷し、大泉庄内、由利、仙北まで武勇を示せしが、豐臣家·天下一統の時、所領を安堵され、慶長五年、上杉を破リ、再び庄內由利を切取り、同十九年卒去す駿河守家親·相續の後、元和六年卒去。その嗣源五郞義後·十二ににててしに、家老ども爭論に及び、忠臣第一の聞えありし松根備前守の申す所無證據なりとて、咎を擧り、最上家も領地六十一萬石を召上げられ、僅に堪忍分として、近江三河の兩國の內にて、一萬石を下さ증延文元丙申、按察使兼賴·入部以來、元和八年に至る二百六十七年なり(風土記略、地名辭書)증又藩輸譜に「最上出羽守源義光は鐵守府將軍前陸奥守義家の三男、足利式部大夫義國の孫、上總介義兼に六代、伊豫守家兼が次男修理大夫兼賴が後胤也。兼賴·初め足利殿の仰を蒙りて出羽の按察使に補せられ、延文元年八月六日、最上郡に下向して山形の城に住す。是より子孫·當國の事を司り、十代の孫義光に至る。義光十六歲にして父義守に從ひ、高湯といふ溫泉に浴すとて行くことあり。或る夜、强盗數十人·彼の旅舘に亂れ入る。家子、耶等散々に拒ぎ戰ふ。義光眞先に進み、二人に手をおはせ、一人と引組んで刺殺し、も以を散す。義守大に悦び、重代の重實と刀ふ太刀を義(上山皇首元三三卒6義秋大二十廿大卒金別号公J元R 9 10義定|義守#九大京大夫甘草市뜻二月二早五十七公堅8義左九九卒天公頼直左在携林国会天:中將今朝頼春四位少將頼高類種11義光-義康今答停當修理大夫出ま守慶長十九12 13正十八番家親-義俊元日本中第五郞玉山自会氏滿義直*죽清水城山野吾四大夫膨水せた六廿八面*先にぞ讓りたる。れれ義義七歲の時、楢下口の合にに名して、父義定が許より此の太刀を讀られし佳例とこそ聞えけれ。義光(天正二年)父が家を繼ぎて、同國谷地の住人城取十郞義國を亡ぼし、寒河江公尺、天童、上山、鮭延等の地を打鹽へ、天正十四年、大實寺が家を滅して庄内三郡を合せて領してけり。この大實寺は世に傳ふる庄内の惡屋形なり。最上記には名は光安と記るせり。義光·其の亡魂を弔はんがために、加茂浦といふ所に光安寺を建立すと。夏目が記には義氏としるす、いづれがよろしき。接ずるに天正十六年八月、上杉が被官本城越前守重長が爲に、庄内三郡をば攻め取られしなり。同十八年秋、豐臣關白·關東に下り給ひし時、義光最初に御陣に馳せ加はり、領安堵子細あらず。初め織田殿の御時より、德川殿にも常に音信を通じければ、明十九年秋、奧の九戶が叛きし時、義光·次男太郞四郞(又左馬助)年僅に十歲なるを、德川殿の御家人に參らす。德川殿·大名の子息を御家人となされし始めなれは.悅せせふふと斜ならず。十一歳の時.關東に召され、文祿三年正月元服きせ御諱字を賜はり、家親と名のらせ、頓がて御推擧あつて、駿河守從五位下になさる。又九戶が亂の時、關白秀次(三好中納言)·追討のため最上郡に陣せし時、義光·息女を參らす。秀次深く悅び、御寵愛淺からず。文祿四年七月、關白御腹めされし時、義光が娘も誅せられ、義光·關白の謀叛に與せし聞えあつて、國既に亡ぶべきに究る。德川殿の御計らひに依つて難免され、義光悅ぶこと大方ならず、如何にもして此の恩を報じ參らせんと思ふ。明慶長元年閏七月十二日の夜、大地夥しく震ひて伏見の城悉く破れ崩る。有合ふ大名·皆キ太閤の御所に馳せ集りしに、義光一人·家子郎等を引具して、はだせ馬に打乗つて、德川殿の加舘に聽せ來る。太閤薨じ輪ひ、上杉中納言景勝、石田治部少輔三成と心を合はせ、德川殿を失ひ參らせんとて、我國に下り、義光の許へ使立て、大坂の味方に參るべき由を云ひ送る、義光·宗徒の一族郞從と相謀リ、同心のよし返答し、德川殿に早馬を參らせて新くと申す。·上方に參るべしと聞いて大に悅び、先づ物の具の料とて黃金二萬兩を贈る。義光·是を領して家の子郞等らに分ち與ふ。頓がて德川殿景勝追討の爲に御下向あるに及んで、南部、秋田を先として、山北の輩を引具して、景勝が國に攻め入らんとす。上方又軍起つて、德川殿引返させ給ふよし、寄騎の輩悉くに引かへす。景勝·初め義光にたばかられぬる事を怒つて、軍勢を差向け、義光が城々を攻め落す。關が原の合戰、上方の人々、負軍しつと聞いて景勝が軍勢引返すを、是處彼處に追詰め〓〓、千五百八十餘人が首切つて、谷地の城を降し庄内の城を落す。明六年七月、景勝·降りし後、義光して酒田の城を取らせ給ひしに、守の兵敢て下げ渡さず。義光三男〓水大藏大輔義成を差向け攻め落す。其の勸賞に庄内の三郡、山北の地を悉く加へ賜ひ、もと二十四萬石是より五十二萬石と云ふ。(恩榮錄に『慶長七年五月、三十三萬石を加へ、合せて五十七萬石』とあり)。左近衞權少將に進み、位從四位下に昇る。義光·多くの男あり、嫡男修理大夫義康、 モカミモカミー男駿河守家親、三男清水大藏大輔義成、四男山野邊右衞門大夫義忠といふ。如何なる故にや、義光義康父子、いつとなく不快に成つて、義康國を去つて高野に遭れぬ。義康·高野に遁るといふは、系圖の旨なり、實は殺されしなり。最上記、又世に傳ふる傳記を考ふるに、其の事大同にして小異あり。最上記に載せしは義光義康父子の近習の輩·互に威を爭ふこと止まず」云々と。その後、家光、慶長十九年正月十八日、十九歲にして卒し、二男酸河守家親·家を〓ぎ、幾程もなく元和三年三月六日、三十六歲にて卒し、其の子源五郞義後·十二歲にて家を繼ぎしが、家人等の相論起りて、同七年十月、近江國に移し、萬石とし、出羽の地を沒收さる。義俊·寛永八年十二月、二十六歲にて卒し、その男刑部義智·僅に二歲、所領を更に減じて五千石とす。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)

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