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基質(檢前姓)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

4檢前姓說よりて予單は、此の系圖を疑ひ、武藏國造の一族なる檜前氏なるを發見して、拙著「武藏」に於いて、次の如く述べたり。「武蔵國造の族には、笠原直、物部直、大伴直の外、檜前舍人直、土師直、刑部直等がある。其の内、檜前舍人直は、宣化天皇の御名代檜前舍人部の伴造家である。張、城一種、遠江、石見等に殘つて居る處を見ると、檜前部は、武藏、其の遺跡が、上總、上野、攝津、大和、廣尾山く全國に設置されたものであらう。此の檜前舍人直は、其の内、武藏の此の部を率ゐたのである。そして、やはり他の御名藏國造族に、代部と同樣、はれる。一族に管理させた。その國造家から分離した時代は國造に命じて設置し、此の氏が起るに至つたと思その結果として、國造武時代であらう。不明だが、恐らく宣化朝を去る遠からぬ承和七年十二月紀に『武藏國加美郡人散位正七位上勤七等檜前舎人直由加羅の男女十人を、左京六條に貫附す。土師氏と同族也』とあるのは、此の後裔で、萬葉集廿に『那珂郡檜前舍人石田とあるのは、此の氏が管理して居た檜前部の後裔に違ひない。猶ほ淺草寺緣起に、檜前の演成、骨成の兄弟が見える。この人を土師の置中知と共に載せ、後世三所權現として祭る處を見ると、山ち兄弟も亦檜前舍人直の後裔で、承和七年紀が檜前舍人は土師と同族であると云つて居るのと、併せ考へて、頗る意味深い感じがする。丹黨の起原。此氏について、それより最つと注意すべきは、後世武藏に榮えた丹黨が、此の檜前舍人直の後裔と思はれる事である。私は永らく武藏七黨の一なる此の丹黨の出自について、疑をはさんで居たが、之を書いて居る內に、思はずも檜前舍人直の後裔なるに思ひ當つた。それは丹黨の分布區域が加美郡を中心とするに對して、前述の樣に、檜前會人の分布が、丁度加美、那珂で、これと一致して居る。そして丹霸が宣化帝の後裔と稱して居る事は、檜前舍人が宣化帝の御名代である事と符合して居る。斯樣に考へて來ると、どうしても丹黨は檜前含人直の後と思はれるのである」と載せしが、更に次の如く考へて、爛々確かに丹黨は、檜前氏なりと斷言すべし。前述丹治氏青木系圖が、此の氏の祖を宣化天皇の皇子檜隈皇子とし、又七黨系圖が、此の氏の祖先なる上惠波皇子に註して、檜波皇子とすれど、書紀にも古事記にも、宣化天皇の皇子に、かゝる皇子あるなし。しかるに、斯く檜前と云ふ皇子·ありて、それより出づと爲たるは、此の氏が、もと檜前氏、卽ち檜隈氏より出でしよで、宣化帝の御名代部たりしより、それを誤解して、丹比姓の祖·實化帝の皇子に檜隈皇子と云ふがありし樣、系圖を作りしも、後に同帝皇子に檜前皇子なる方の正史になきより、更に檜隈皇子を上殖葉皇子に當て、しかも猶ほ原形を止むる爲に、其の一名とし、更に檜波皇子と誤りしが七黨系圖なりと思はる。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

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