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土岐(5)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

5家紋見聞諸家紋に「桔梗(但し幕は無紋の水色)。土岐は賴光四世孫·國房の末、國房は賴政の叔父也。童名文珠丸、正四位下、攝津守、鎭守府將軍。土岐氏·源姓に出づ。故に其の紋たるや、白色を一變し、乃ち以つて水色と爲す。昔時は唯これをのみ用ふ焉。是れ又その先を貴ぶ所以也。後世·野戰ある時、桔梗の花を取りて、其の冑に挿み、以つて大いに利を得たり矣。因りて之を例となし、違に之を水色の中に置き、以つて定紋と爲す也。然れども其の年月を記さず。又其の何人が始めて之れを爲すかを知らざる也源頼光の紋たり。末裔·これを用ふ。故に其の說を堅取するを得ず、暫く其の聞く所に依りて、以つて書寫のみ。」と。弟賴遠·土岐郡大富城(泉村大富)に居リ.後厚見郡長森城に移る。長森城は厚見郡長森村にありて、土岐賴貞(彈正少輔、美濃守護)の子頼遠(土岐總領職)·建武四年丑二月、土岐郡大富城(泉村)より移住す。曆應元年正月十六日、桃井直常と兵を併せて、不破青野ヶ原に陣し、北畠顯家と戰ひ、創を蒙り本城に退く。明年、脇屋義助の柚山城を攻め、義助·美濃國に走リて根尾城(本某郡根尾村神所)に保つや、甥賴康と攻めて拔く。賴遠卒後、賴遠の甥賴康まで本城に居城すとぞ。次に川手城は同郡厚見村川手に在り、賴違の刑せらるゝ後、延文五年子三月、兄賴〓の子大膳大夫賴康代リ、美濃、尾張の守護となり、之を築く。第賴雄、其の子康行、其の子廉政、其の子持賴等、相繼ぎ、康政、應永六年十月十五日·賴益に殺され、持賴·永享十二年大和に生害す。頼登·廉政を討ち、美濃の守護となリ、應永七年正月池田郡より本城に居る。其の子持益、其の子持兼、成頼、其の子政房、其の子政頼に至り、享祿元年、西村勘九郞、及び第頼藝のために腸はれてに居土岐6居城大祖國房·天喜五年二月、始めて當國土岐郡大富の里に住すと云ふ。その後、光衛·土岐に居り、後に郡戶に移る。その子光行、その子光延等は土岐郡淺野に住し、孫賴貞·同郡高田にありて、守護たり。その子頼〓·池田郡瑞岩寺に住し、トキトキトキえんじ 天文廿一年の事なりといふ、心得られず。織田信長·美濃國を併せられしは、天文十二年より十三年に至る間の事なりといふなり。さらば、定明の戰死の事、#一年には有るべからず。若し本領を失ひしのち、他國に在りて合戰せし事、天文廿一年にある歟、未だ詳かならずといふ)。山城守定政は、定明が男にて、美濃國多藝郡に生れ、童名は愛菊丸といふ、生年二歲にして父におくれ、母方の男三河國額田郡の住人菅沼常陸介が許に、ひとゝなりて、十四歲の時、德川殿に召されて、菅沼藤藏とは申しけリ。(初め土岐と名のらざるは、養父の氏を稱し、又は明智が親成たる事を憚りしが故なりといふ)。十七歲にして軍始めして、一生の高名數を知らず、三方が原の戰に、味方散〓〓になつて、御馬に從ひ參らせし人多からず、定政、三宅彌次兵衞正次の二騎、御側をちつとも離れず、敵近付きまゐらすれば、定政返し合せて戰ふ事、度々に及び、終に敵の多勢に割て入り、一騎を切つて、其の首取て馳せ來る。持舟の戰に、水野彥九郞·敵二騎と戰つて打たれぬ。定政·敵二騎を切つて落し、水野が首をば取リ越前に走り、弟頼藤總額職となり、方縣郡鷺山城より移る。天文の初め山縣郡大桑に移る。次に方縣郡城田寺城は上城田寺村にあリ。新編志に「古城は舍衞寺の境地あとなリ。土岐成賴入道宗安·明應五年にうつりすみ、其の子美濃守政房も河手の城よりこゝにうつれり。政房の弟佐良木三郞尙賴も、その弟土岐四郞元賴と共に、明應五年、城田にて生害す」と。齋藤條を見よ。次に揖斐郡揖斐山城は、明德中、土岐賴康の弟賴雄、城臺山に築き居る。其の子詮賴、其の子光賴住す。天文十一年光親の兄頼藝、道三の攻むる所となり、此所に居り、十六年大桑城に移る。又可兒郡久々利城(久々利村久々利)は、天文年問、土岐惡五郞住す。次に加納(沓井)城は守護代の居城にて、文安二乙巳年八月、持益の執權·齋藤利長築く。其の子越前守利藤(妙椿。土岐成頼政房の執權)、其の子新四郞利国賞は、同執權)、嫡孫新四郞利良、長井豊後守利隆(政房、政賴、賴藝の〓權)まで居城す。齋藤條に詳か也。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

尊卑分脈(記事名の出現頁・OCR照合)

新撰姓氏録考証(記事名の出現頁・OCR照合)

  • 『新撰姓氏録考証』(栗田寛著、1900、国立国会図書館デジタルコレクション)巻之11-21:57頁

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