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土居(2)

提供: 氏族家系データベース

概要

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姓氏家系大辞典

2土居氏の動王先づ博多日記に「三月十六日、長門より早馬到來して云ふ、閨二月十一日、上野殿·伊豫國に御渡の處、船津に兵粗米を上げ置き、御向ある處に、河野土居九郞通益·只一騎打ち出で申す樣此に御向ひ悅び入リ候。只の大將にて御坐さば、心地あしく存じ候はんずるに、御一門にて御坐せば心地能く候。又我が身も河野にて候へば、敵にはよも嫌ひ給はじ。今日は日もくれ候。又明日·見參に入るべしと申して引き退き畢んぬ。上野殿·御方には明日は勢も集るべし。今夜寄るべしとて、一千五百餘騎にて土居九郞の城墎を構へたる處に寄せらる。其の夜·上州御方には勢を所々に陣を取りて居らるゝの處、厚東以下少々心がわりして、うしろやを射るべきの由·聞へける間、豐田が再三申すによりて、卽ち落ちさせ給ひ畢んぬ。馬鞍以下、兵根米皆悉く捨らるゝ間、土居九郞·これを取る。爰に長門、周防の御家人百騎計リ申し云ふ我等は重代者、上州の御共して落ち通豐ニアき老人ぬ物ならば、浮名を流すべしとて、留りて打死す。正慶二年三月十一日、伊豫國水居津に付いて、同日申時にやがて寄せて、同十二日、平井城にて討たるゝ人々、云々」と。上野殿は北條時直なり。こは太平記卷七、河野謀叛の條に「六波羅には一方の打手にはと、憑まれける宇部宮は、千劔破の城へ向ひつ。西國の勢は伊東に支へられて、上り得ず。今は四國の勢を摩耶の城へは向ふべしと、評定せられける處に、後二月四日、伊豫の國より早馬を立て、土居二郞、得能彌三郞、宮方に成りて旗をあげ、當國の勢を相付けて、土佐の國へ打ち越ゆる處に、去月十二日、長門の探題上野介時直·兵船三百餘艘にて、當國へ推し渡り、星岡にして合戰を致す處に、長門、周防の勢·一戰に打ち負けて、手負ひ死人·其の數を知らず、剥へ時直父子·行方を知らず云々。其れより後、四國の勢悉く土居、得能に屬する間、其の勢·巳に六千餘騎、宇多津、今張の湊に舟をそろへ、只今責め上らんと企て候也。御用心有るべしとぞ告げたりける」と見ゆ。浮名を流すべしとて、留 その後、卷二十二、義助豫州下向の條に「土居、得能、土肥「河田、武市、日吉の者共、多年の宮方にして、讃岐の敵を支へ、西は土佐の畑を境ふて居たりければ、大將下向に彌々勢を得て、龍の水を得、虎の山に靠りかゝるが如し。其の威·漸く近國に振ひしかば、四國は申すに及ばず、備前、備後、安藝、周防、乃至九國の方までも、又大事出來ぬと、云はぬ者こそ無りけれ。されば當國の内にも、將軍方の城·僅に十餘箇所有りけるも、未だ敵も向はぬ先に、皆聞き落ちしてんげれば、今は四國·悉く一統して、何事か有るべしと趣敷く思ひあへり」と。又義助朝臣病死の條に「細川勞が土肥三郎左衞門が河江城に押し寄する」事を載せたるが、この土肥を土居に作るものあリ。而して河江城と同じく宇摩郡にも土居邑の地あれば、地理志料の如きは〓居·蓋し土居通增の居る所、忽郡軍中日記には、土肥城に作る」と。土肥條參照。猶ほ太平記、同條十七騎の一に土居備中守を收む。その後も、土居氏は勤王す。終始一貫·偉と云ふべし。橫田傳松氏の土居系圖·通增譜に「通增·土居彦九郞、伊藤権介に任ぜらる。河野と號す、母は河野七郞通氏の女。元弘三年癸西二月、後醍酬天皇·平氏追討の倫旨を賜ふ。一族得能又太郎通綱と相議し、兵を豫州に擧げ、喜多郡根來山城を攻めて之を拔く。當城は楯籠る所·宇都宮遠江守、同美濃入道代官等也。同年閏二月十一日、府中守護三河權守貞宗の館を圍みて之を攻め、貞宗以下、地頭御家人等を追ひ落し訖んぬ。同二十七日、重ねて喜多郡根來山城を攻む。井門、高市.忽那、大祝、日吉、多田、三木、合田、二宮等の一族·皆これに屬す。同三月十一日、根來山城を拔き落し、同十二日.星岡山城に押し寄せ、平時直以下の朝敵を追ひ落し乾んぬ。同四月、後醍醐天皇·伯州船上より叡感の倫旨を賜ふ、勘解由次官光守·ヽれを奉ず。同五月七日、讃州に進發し、鳥坂山に闘ひ、大いに賊兵を破る。同年、天皇·伯州より御飯坐の時、三千餘騎を率して供奉、叡感を蒙り、伊廉權介に任じ、從五位下に叙せらる。建武元年甲戌、紀州飯盛城に於いて合戰、足利尾張守高經の大軍を敗る。同二年乙亥二月十六日、豫州所々に於いて、野本式部大幅貞政、河野四郞通任と合戰、同月攝州豐島河原に到リ、足利直義の大軍を攻め靡け、中賞の倫旨を賜ふ。同年十二月、新田義貞卿の幕下に屬し、京都より山道に發向し、信州大井庄に於いて合戰、軍忠を抽んず。同三年丙子正月、山門度々の合戰に軍功を施す。同年六月七日、無動寺、並に越中尾間に發向し、同晦日、只須河原合戰に無雙の動功を抽んじ、被官等、多く分捕せしめ訖んぬ。同四年、越前に到るの時、雪中の道路、大敵に圍まれ、至寒に堪えずして、自殺、從士三百餘人も悉く命を隨し訖んぬ。法諡·靑龍院殿元音義鑑大居士。明治十七年四月十日、贈正四位。(河野、忽那、宇都宮等の條參照)。通重·土居彥九郞、後に河野備中守と號す。父通增に屬し、所々合戰に高名、父自殺の時、在國して奥州の將軍方と相戰ふ延元々年、豫州和氣濱に於いて、細川三位皇海と懸合ひ合戰、これを追ひ返す。同三年、六月より七月に至る高井城を攻め之を拔く。城主大森左衞門尉春直以下、數百人を討伐す。同年九月二十九日、播磨塚合戰に軍忠を抽んず。其の外、和泉の堺濱、淡路合戰等、軍忠·之を記悉くの記錄に見ゆ矣。同すに違あらず、四年七月七日、周防國加室に於いて戰死、法諡·自樂院殿嘯月眠江大居士。大正五年十二月二十八日、贈正五位。通世·土居彌次郞。通增父子討死の後、吉野殿より惣領職に補せられ、後從五位下。兄通增と各地合戰に軍忠を抽んず。法證·西樂寺殿仁山宗義大居士」と0子孫第四項を見よ。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

尊卑分脈(記事名の出現頁・OCR照合)

  • 『本朝尊卑分脈』(洞院公定撰、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[4]:23頁
  • 『本朝尊卑分脈』(洞院公定撰、写本、国立国会図書館デジタルコレクション)巻[8]:69頁

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