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土居駿河(紀伊土岐流)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

9紀伊土岐流紀伊國名草郡北野村の土井氏は、前條第十四項土居遠江守貞秀の育、七代孫土居四郞通氏に至リ土井に改むと云ふ。續風土記、平田莊北野村條に「土井安之丞。家系にいふ、其の祖を〓和源氏貞純親王の後胤土井遠江守貞秀とい六七代孫土居又四郞通氏にいたりて、土居を改めて土井とす。當莊の郷士たり。通氏の子を又次郞通武といふ、小牧役に、父子·東照神君に御味方をなし、泉州に出づ、三十六人の内なり。通武の子を次郞左衝門尉義重といふ、根來退轉の時、悉く所領を失ひ農民となる」と載せ、又「古城趾·土井次郞左衞門、又左衞門兄弟の城とぞ」とあり。10〓和源氏大舘氏族これも紀州の名族にして、南朝の忠臣大館彥九郞氏兼の裔と云ふ。大舘條第六項を見よ、永正中、參州の士土井九郞左衞門利信の女を妻とし、土井に改む。澤部郡濱中に移し、その子土井新助·牟妻郡尾鷲婦に移る。續風土記に「舊家地士土井淳助」を擧げ、古河家大野土井次に利勝五男信濃守源利正(利直)は、父の所領を分ち賜ひ、一萬石、一說に父に遺領五千石を給ひ、其の後兄利隆が籠居〇時、又五千石を分つと。延寶三年、御奏者の事を承る。同五年三月十五日卒す、世嗣なければ、死に臨みて、兄能登守利房が二男を世嗣とすべき由を申しけリ。末期の養子をば許し玉ふまじき法なれど、彼が年比奉公の勞ある事を思召して、請に依て、養子左門·家を繼ぎ、所頷 トイトイトイオカートイタ三八七八また伊澤系圖に戶土肥、土井、土居國中富豪の一とあり。その他、同郡「下里村屋敷跡。土人傳へて土井佐渡守の宅地といふ。佐渡守いかなる人か詳ならず」とo又「萬呂莊下萬呂村、牛頭天王社神主土井氏」を擧げ、又那賀郡土井村舊家「土居佐渡。天正四年より氏神野中村厳土神の神主なり」と。11美作の土井氏土御門院の御宇、二階堂氏が臣土井兵庫は地頭代として、勝北郡小吉野庄土居に住し、五六代相續して、菅家黨に亡ぼさるとぞ。眞庭郡月田に土井氏存す。12備後安藝の土井氏藝藩通志、三谿郡條に「兒玉將監宅址、光〓村にあり。土井屋敷、又殿屋敷とよぶ。智井濠墅の跡あり」とo關係あるか。13筑前の土井氏內田文書に「土井、多々良黨」so秋月氏家臣にて、井樓墓聞にも見ゆ。14阿波の土井氏土居、土肥、戶井等の條參照。土井平八郞昌吉は伊豫國佛殿城主、昌〓、昌吉、その第二子昌教は、因幡守と稱す。川田城主にして細川氏に仕ふ。次に庸吉は紀伊守、又兵部大輔と號す。川田井上城主、天正三乙亥年三月廿四日卒、淳昌院殿諦岳啓宥大居士(阿波志に依る)なりとぞ。15桓武平氏三浦氏流三浦正次·土井甚太郞と稱す。ミウラ條を見よ。16壹岐の土井氏捕鯨家として名あり。綱組を生月に出す。17雜載東鑑に土井次郞實平とあるは土肥也。又卷十に土井荒次郞を擧ぐ。下りて津藩の儒者に土井賛牙(有恪、土恭)、林子平傳に「姉は仙臺公の妾、土井殿を產む」と又津山藩分限帳に「四拾五錢、土井官左衞門。六石三人扶持土居太兵衞、忰土井左一」름又高麗文書に御徒方土井甚三郞·見ゆ、その他、伊勢、志摩、備前等に存す、土居條參照。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

系図・系譜

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