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土佐林

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

出羽國大寶寺武藤氏の被官にして、東田川郡藤島城に據る。往古は羽黑山の別當職として勢力ありしが、武藤氏に壓倒せられて、其の配下となりしものの如く、蓋し出羽在廳官人の後裔と思はる。一說に武藤氏の一族と云へど信じ難Lo莊內史に「藤島城は今僅に土居堀跡等を存す。傳へ曰ふ、往古·土佐林氏之を領し、羽黒の別當職を兼ねたりしが、後武藤政氏·土佐林氏を壓倒し、羽黒山の別當職を務め、土佐林氏(甲斐守)は、これが家臣となりし」と云ひ、安倍氏の筆餘に「藤島の修驗千手院は、土佐林氏にて、同姓外にもあり、皆古の羽黒別當の子孫也。上町分に古郡入作二百石の地方ありて、古郡楯は初め土佐林氏の住居なりしに後藤島へ移す」とも說かる。氏人は巉川親元日記に「大寶寺出羽守被官土佐林云々」と oまた羽黑舊記に「文明九年西正月、藤島殿退治。同六月、平賀殿一乱文安二年丑、羽黒御本社修造、當國主土佐林和泉守氏光殿御建立也、」と載せ、下りて天文元展年に「砂越殿·大將にて、土佐林を御追討あり。同十年十一月、晴時屋形卒去、土佐林以下百餘人落雲」と。この天文元年の亂は、砂越大乘院年代記にも「天文元年、弓矢起リ、同六年に弓矢收る。同挑井殿、茶黃島に始めて住す。同七年二月·再亂、同十年十月、桃井殿生害也」と。また大寶寺文書に「今度、鮭延の人數·相立つべき爲、藤島の地え罷り越し候。其許よりも、御太儀ながら相立てられ候由、杖林·兼々申し越され候由に候。云々、恐々謹言。菊月十七日。土·宮内少輔氏度。狩川殿御宿所」と。こは天正十年、大寶寺義氏が敗死以前のもの歟。土佐林官内少輔は、甲斐入道杖林の子息なり。又砂越大乘院年代記に「天正十年、丸岡義興·國主三年、次に範州と功輪との兵亂起り、山形義秋樣出馬、三床まち〓〓、大浦落城」とあるを熟思するに、範州は東禪寺筑州の講にて、功輪は土佐林杖林の譌なり。蓋し天正十四年の秋冬の比に、杖林は山形軍に破られ、土佐林氏·此に亡びしを知るべし、」と地名辭書)。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

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