國符
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
國府氏に同じ。伊勢の國符氏は桓武平氏と稱す。關氏の一族なり。關家五大將の一にして、勢州四家記に「鈴鹿郡國符國家云々(セキ條參照)、」また「國府治郞四郞」を載せたり。傳へ云ふ、元弘年中、關實治の二子盛門·國府に築き、子孫國符氏と稱する也と。卽ち關系圖に「實治(一に盛政、盛忠、左馬亮)-盛門(彈正忠、國府氏祖)」と載せ、又加太系圖に「左近將監盛治-盛門(次郞、佐渡守、國府家祖、」と見え、又御關家筋目には「長崎四郞、盛政五男國府五郞爲頼、鈴鹿郡國府に居住す。五大將第五なり」とあり。此の國府氏の事は、雅康關東海道記に明應六年五月十三日、國府佐渡入道誠泰の在所にまかりて兩道あり。都をば、きかで出にし、ほとゝぎす、伊勢までたれか、待と思はん」と。三國地志に「國府城は、國府村の四の方にあり。外郭東西百八十步、南北百步ばかり。佐渡守初めて築き、九代居守、(秩三萬石)、次郞四郞に至りて廢す。初代平誠參は國府家の統、佐渡入道と號す。明應八年云々の事、関東海道記に出づ。又國府家の系脈は『次郞盛門は佐渡守。盛門の男武藏守(名關)武藏守の男山城守勝盛。勝盛の男佐渡守勝清。勝〓の男佐渡守(名國)。出羽守盛直。佐渡守盛邑(初友之進、實は關盛信の三男)。次郞四郞盛種(盛邑の男)。天正十二年五月六日、加賀野井夜戰に敗北、是の時、廿代にして滅すと云ふ。系統詳ならず。口碑傳聞を擧げて後の考を俟つ」と見え、又伊勢名勝志に「國府城址は國府村字長之城に在り。壘濠の址·尙ほ存す。蓋し往古國府所在の地ならん。元弘中、關實治の二子盛門·城を築き之に居る、國府氏と稱す(或は云ふ、國府氏より先き、富田進士家資なるもの、初め之を築きしも、久しからずして廢し、國府氏·其の址に再築せしと。未だ然るや谷を詳にせず)。歷世之に居る。八世盛邑·永祿の末、織田氏に屬す。子次郞四郞に至りて、天正十二年、羽柴秀吉の兵·峯城を陷る。次郞四郞、秀吉に降るを欲せず。棄てゝ尾張に走る。或は云ふ、信雄の爲めに、美濃の加賀井城(一に付が鼻城に作る)を守り戰死すと」(背書國誌、三國地誌、鈴鹿郡賦類聚)と。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』磯部甲陽堂(1943年)2279頁)