國枝
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
美濃國の豪族にして、新撰志、池田郡本郷村古城條に「文明年中、國枝大和守爲助·此の城を築きて住めり。爲助は土岐家に屬し、南部の内を領知し、後一源入道と稱す。船田亂記に『國枝爲助は石丸に屬す。爲助兄弟五人、明座四年戰死』と見えたり。國枝は、厚見郡鏡島の安藤氏よりわかれたる國ざむらひ也。其の大和守正助、始の名は彌三郞、天人々十二年の頃まで在城す。同佐渡守·永祿の頃、こゝにありし由云へり。同參河守重光、信長公·安土に在城の頃、此の城を守りしが、天正十二年卒す。重光の妻は稻場一銕の女なり。國枝加賀守は天正の中頃の人、また正助の子國枝飛彈守、其の弟國枝藏人等は、當郡の内·何れの地に住みしにや、今定かならず。藏人は三千貫の地を領し、道三が井口の戰に討死す」と見ゆ。又大野郡更地村に、國枝氏の宅址あり。國枝大和守成勝·土岐家に仕へて、池田郡に住す。其の子三河守勝助、後に齋藤家に屬す。其の子加賀守勝道、其の子四郞兵衞貞勝、この地に住めり。その氏族、後に越前の大守吉品主の家臣となると云ひ、又石津郡牧田村の古戰場は、「大永五年八月、近江國の淺井備前守亮政·革手土岐の居城へ押寄す。不破河内守、稻葉備中守、丸茂兵庫頭.國枝大和守等、是を禦がんとて此の地に馳向ふ。四美濃の諸將、其の由を革手の城に注進しければ、土岐賴藝·出陣ありて、近邊の士長井氏、日根野氏、鷲見氏、野村氏等を相具して栗原山に馳着く。賴藝の旗栗原山の西南に出でし時、大橋、三田村、雨森の近江勢·谷間より突て出で、國枝大和守入道宗竜、同興次(或は奧次)、稻葉備中守通則、丸茂兵庫頭等、是に立向ひて戰ひけるが、丸茂が一族、亦國枝が郞等末松等、大に働いて討死し、稻葉通則父子も多勢が中へ突て入リ、父子六人郞從とも終に討死す。かくて日も暮れければ戰止み、東美濃の士卒追々に加はり、美濃方多勢になりけるにや、淺井亮政·其の夜の曉方に近江へ引退く。賴藝も革手の城に歸る」となり。なほ國技三河守、國枝八郞等、諸書に見え、稻葉系圖に「一鐵の女子、國枝三河妻」と。また秀康卿給帳に「二千五百石國枝賴母、五百石國枝平左衛門、三百石國枝午之助」等を載せたり。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)