四八五九
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
四八五九 ハヤキ頭職を領知せしむべき事。右の人を彼の職と爲し、先例に任せ、沙汰致すの狀·鎌倉殿の仰に依り、下知件の如し。天福元年七月二十日、武藏守平朝臣判、相摸守平朝臣判」と。次に其の男早岐判官盛實の護狀に「ゆづりわたす、ひこのくに六ヶ莊のうち、おやまのむらのぢとうしきの事、しやてい(會弟)にやくゝま(若熊)どのに。右·件のぢとうしきは、おうちこ·しらかわのはうくわんたいにうたう(白川判官代入導どのより、もりさねがよまで、三代さをいなきところなり。たゞしたうじは、ちゝはやきどのゝ御ちぎやうの所なり。だい〓〓のゆづり狀、本證文とも、早岐どのに候によて、たうじはほんせうもんはそへず候。あんはそへてゆづりたてまCaro.ほんせうもんはひんきの時、申てたてまつるべし。はやきどのゝ御めいをそむかず、おほせにしたがわるべきなり。御よののちは、若熊どのゝちぎやうせらるべき所なり。もしいらん申す人あらば、もりさね·其の沙汰にあふべし。おとゝあまたありといへども心ざしふかきによて、ゆづるところ、實也。よて後日のハヤキ爲めゆづり狀·件の如し。建長三年八月十日、源盛賣判」と。弟若態は早岐判官代〓基と稱し、剃髪して法名正心と云ふ。將軍家政所下文に「肥後國六ヶ莊内小山村住、早く源〓基〓名若熊)を地頭職と爲すべき事。右·舍兄盛實が、建長三年八月十日の讀狀に任せ、先例を守り、沙汰致すべきの狀·仰する所件の如し、以つて下す。建長八年十月三日、案主〓原判」と。又正心讓狀に「ゆづりわたす、ひごのくに六かのしやうおやまのむらの、ぢとうしきの事、しそく太郞くらんど入道正ゑんに、本證文をそへて、ゆづりて候へども、孫きくちの九郞たかのぶ(隆信)·やうしとしてゆづりあたふ所なり。云々。正わぐわんねん十二月二十一日、正心判」と。又「おやまのむらのぢとうしきをば、せん日、くらんどにうだう正ゑんにゆづりわたすといへども、でう〓〓正心がこゝろに、たがうあひだ、かれをくりかへして、また、きくちの九郞たかのぶに、ほんせうもん·あいそへて、ゆづりわたすところなり、云々。正わ三年三月十日、正心判」toハヤキ四八六〇又「肥後國六箇莊小山擲地頭早岐判官代〓基法師(法名正心)代隆信·當莊惣追捕職給主水原孫四郞宣孝代行信と所務を相論する事、云々。正和五年五月十二日、相摸守判、武藏守判」と。以下菊池、小山詫磨等の條を見よ。早岐太郞藏人入道法名正圓の孫、早岐六郞議人秀政(法名永結)の男氏政は早岐源六、伊豆守等と稱し、剃髪して法名光圓と云ふ。文書に「目安、早岐伊豆入道光圓申す、本領肥後國小山村三分一地頭職を詫磨武者一·押領の事。副進、安堵加〓書、武者一祖父の奥狀。右地頭職は武者一が祖父武宗(菊池隆信の養子)·光圓の父秀政と相論の時、道理なきに依り、公方の御成敗を相待たず、武宗·私に和與するの條、文書に明白也。而るに今先祖の契約を改め、恣に押領せしむるの問、歎き申すに就いて、先度·問狀、御〓書を下さるの處、未だ御請を申さざるの條、上裁に背く者也。違背と云ひ、押領と云ひ、罪科を遁れ難き者歟。然れば早く和奥狀の旨に任せ、當村三分一を打渡し給ふ爲、粗目安、言上·件の如し。專慶二年六月日。四八六〇建長三年八月早岐六鹿藏人秀政申す、本知行分所領の事肥後國六ヶ庄內小山村地頭職、同戶〓、永峰の兩所、同國藤崎庄内石村地頭職、同國神議庄内詫磨田地五町、屋敷二ヶ所、此所の事、知行云々、相違あるべからず、追つて注進の狀·件の如し。文和二年十月二十一日、右京權太夫判」とo又康永三年八月二十五日越前守武宗判書に「和奧の儀たる間、地頭職三分一を、はやきの六郞くらん人殿にさりわたし申す事實也、云々」と。また藤埼社文明九年文書に早岐山城守和政·見ゆ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)