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和蘭人

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

と共に江戶に入り、幕府に仕ふ。馬込氏の女を娶り、ジヨセフ、スサンナの二子を生む。相州三浦に領土を賜ふが故に、稱して三浦安針と云ふ。江戶に安針町あり。求凉雜記に「安針はもと西洋の者にて、元和年中、ヤヨウスといふ者と同船にて來朝し、後日本に留リ、三浦安針と名をあらため、則ちこの所を賜ふ。故に安針町といふ。往古增上寺·此邊にありし」と見ゆ。又相州三浦逸見の鹿島社棟札に「奉建立鹿島御實前、大檀郡三浦安針·敬白、云々、寛永十三丙子層八月二十四日」とあり。地名辭書に「安針屋舗贖は逸見村の中程、淨土寺の南にありて、今陸田となれり。相傳ふ安針は朝鮮の人なりと。長崎大紀に『度長五年、泉州堺の浦に異船着岸す。咬〓吧より商賣として、阿蘭陀人諸厄利亞人相渡ると申すに付、江戶へ注進す。江戶へ過船すべき由仰出され、出帆す。海中羅風に逢ひ、相州浦川に打寄せ破船に付、乘組の人數·陸より江戶へ召され、御詮講あり。年々渡海致し、商賣仕り度き由願奉る。乘船なき故、八九年逗留す。其CA.御扶持方拜領、阿蘭陀の頭人ヤンヨウス、諸厄利亞の頭人アンシと申す者逗留の間、折節御城へ召し、異國の議·段々御尋あり。右の兩人へ屋敷等拜領仰付られ、住居せしむ。今に於いて江戶やンヨウス居る所をヤヨソ河岸、アンシ居る所をアンシ町と申し僕』と安針塚は橫須賀停車場の四南半里程、琵琶首坂の上にして、葉山村木古庭の方へ下る路傍に存す。二墓石相井び、一は妻女なりとぞ。安心は本名ウヰリアムアダムス、慶長五年江戶に至り、留まりて德川家に仕へ、釆地二百五十石を此の逸見村に賜はり、三浦安針と稱せらる。近時諸史家の〓究に據るに、其の死は元和五年か六年にして、肥前平戶港なり。されど安針投歸後は、邦人の女を娶り、二子さへありければ、此れなるは分骨塚、又は追福塚なるべし。又本村鹿島社棟札に『寛永十三年三浦安針』とあるは、妻覚永十一年死)馬込氏の所出の二子ジョセスサンナの中のいづれかが相續した建治二年に又延文五年るならん。されど二代にて、此の家も断絕したるにや」と。54雜載武鑑に紀伊家重臣を始めとし、三宅藩用人、河越松平藩重臣、毛利藩側用人、黑石津輕藩用人、沼田土岐藩重臣、福山阿部藩家老格、敦賀酒井藩重臣、井伊藩重臣、酒井縫殿頭家臣等に見ゆ。又秀康藏給帳に「四百石三浦與三左衞門」を載せたり。又幕臣三浦五郞左奮門義周(延享より)は、家紋三引、釘拔、松皮萎。その他、三浦十右衞門、八郞左衞門等寬政系譜に見ゆ。祥雲寺過去帳に「三浦源右衞門云々」、文政書付に三浦和泉守あり。又徂〓門下に三浦小五郞(平大夫)義實(良能)あり、竹溪と號し、濱松藩に仕ふ。又松代藩臣三浦養賢(養益惟芳の男)は畫家にして晴山と號す。又戯作者に三浦錦二(白雲堂山人)、三浦流柔道の祖に三浦奥次右衞門義辰、甥丹治義邦·嗣ぐ。又駿河府中淺間社々家(もと偏運坊)に存し、又增山正祇事實に三浦志摩安次、又幕臣三浦小次郞は俠客となり、吉屋と稱す。又津山藩分限帳に「五十石·御徒家三浦十郞左衞門、十八俵三

(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)

系図・系譜

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