コンテンツにスキップ

周防國大(朝臣姓)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

9壬生首個前の發族にして、又壬生部の具血賴聚三代格卷一、天平三年の勤に「戶座·備前國壬生首云々、右は女帝御宇の時に供奉」とあり。10壬生公上野の豪族にして、毛野氏の族、壬生部公に同じ。弘仁四年二月紀に「上野國甘樂郡大領外從七位下動六等壬生公郡守に、特に外從六位下を授く。戶口增益して、民の懷く所なれば也」と載せ、また貞觀十二年紀に「上野國群馬郡壬生公石道」あり、朝臣姓を賜ふ。これ等は上毛野公の族にて、壬生部の伴造たりし氏也。次項參照。11下野の壬生公前項と同族にして、明匠略傳に「慈覺大師·諱は圓仁、俗姓壬生公。下野國都賀郡の人なり。其の先は崇神天皇第一の皇子豐城入彦、天皇の勅に隨ひて、行きて東國を治す。其の苗裔に及び、遂に〓人と爲る」と載せ、また天台座主記卷三に「圓仁和尙は下野國都賀郡の人、壬生氏、崇神天皇の苗裔」と云ひ、また日本徃生極樂記に「延曆寺座主傳燈大法師位圓仁。俗姓は壬生氏、下野國都賀郡の人也」증また諸門跡語に「慈覺大師、法諱は圓仁、姓は壬生氏、下野國都賀郡の人、昔崇神天皇の第一皇子豐城入彦命、東壤を察す。其の次子·留りて〓人と爲る。仁は其の胤也。延暦十三年に生る」と。また貞觀六年正月紀に「延曆寺座主傳燈大法師位圓仁·卒す。圓仁·俗姓は壬生氏、下野國都賀郡の人也」など見え、元享釋書に「譯圓仁·姓は壬生氏、野の下州都賀郡の人也。昔崇神天皇の第一皇子豐城入彦·節して東壤を察し、其の次子、留りて婦人と爲る。仁は其の胤也。延曆十三年に生る焉」など見ゆ。12高志壬生公大伴氏の族にして、姓氏錢、右京神別に「高志壬生連。日臣命七世の孫·室屋大連の後也」と載せたり。第十七項參照。13稻城壬生公垂仁帝の御奇、稻木之別の後にて壬生部の伴造たりし氏也。姓氏錄、左京皇別に「稻城壬生公。雅仁天皇の皇子鐸石別命より出づる也」と載せ、氏人は東大寺古羅卷、承和十四年賣買家地券文に「左京六條三坊戶主從六位上稻城壬生公鯨の戶口同姓物主」、また「保證内堅先位稻城王生公綱變、稻城壬生公綱取、稲城壬生公眞綱」など見ゆ。而して文首に宇治郡印ありと云ふ、山城國人か。14稱城丹生公前項氏に同じ。丹生(ニフ)條第九項を見よ。ニフ條、及び本條第五15壬-速凡河內氏の族、茨城因造の族にして、常陸なる壬生部の件氏也。常陸風土記、行方郡條に「難波長柄豐前大宮馭字(季德)天皇の世、茨城國造小乙下壬生連麻呂」なる者見ゆ。16多臣族の壬生連第四項王生直小家主女を、天平神護二年正月紀に「壬生連子家主女」と載せ、又神護景雲元年三月紀に「常陸國筑波郡人從五位下壬生連小家主に、姓を宿禰と賜ふ」など載せたり。17高志壬生連第十二項と同樣、大伴氏の族にして、姓氏錄、右京神別に「高志壬生連。日臣命七世の孫·室屋大連の後也」と載せたり。18壬生吉志武蔵の豪族にして、拙著武藏に「此の壬生は如何なる皇子の壬生か詳かならざれど、恐らく御名代部の一たりしならん。吉士は韓半島より歸化せる者の後と思はるれど、その何處よりか詳かならず。其の族·維波の地に最も榮え、他の國にては、此の國以外、殆んど見えざれば、韓土より難波に移り、後その一部·當國に移住せしものなるべし。その移住の時代の如きは全く考ふべからずと〓,强いて想像を逞くすれば、安閑朝、の朝廷領となりし際、吉士は朝延直属の民なれば、難波の屯倉より移住せしものか。而して此の吉士と云ふはカバネの如きものにて、某吉志とあるは多く勢力ある氏

(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)

系図・系譜

関連論文

外部リンク