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名(1)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

四〇〇二のなり。平治の亂れの後、身をかくして、此の地にあり、今汝が愁ふる賊を退治し得させむとて、村長と共に當村に來り、彼の惡徒を誅戰し、邑民に望みを達す。さて景廉は、賴朝〓·伊豆の、蛭小島に起リ給へるを聞き、こゝより馳せ下りて武功を顯はし、彼の卿一統の後、此の地を恩賜ありて、霧が城を築けり。今里中に加藤次の腰懸石、屏風岩など舊名殘る」と載せたり、景廉は伊勢の國人加藤景貞の次男にて、遠山判官、また藤次左衞門少尉と號し、從五位下に叙す、法名を覺蓮坊といふ。源平盛衰記の山木判官兼隆·夜討の條に「加藤太みつたね、加藤次景かどとて、兄弟二人あり。是は能因入道には四代の孫子なり。彼の能因が子息に月並の藏人といふもの、伊勢の國に下りて、柳の右馬の入道が聟に成りてまふけたりし子を、加藤五景貞といひき。後には使の宣を蒙りて、加藤判官とぞいひける、其の子共也」と。承久三年八月三日、景廉卒して郭内に葬り、靈を祀りて八幡社と稱す、(新編美濃志)。(加藤條參照)次の城主は遠山左衞門尉景朝なり。分脈細記に見えたり。又遠山左衞門尉賴景は當城に居り天正のはじめ卒す。次に遠山内匠助は、或は岩村修理亮とも名のり、信長公の叔母聟にて、元亀三年まで在城し、その年の十二月卒す。次に遠山御坊丸は、內匠助の養子、實は信長公の五男なり。元亀三年の冬·家を繼ぎ、あくる天正元年三月まで城主たり。のちに織田源三郞勝長といひしは此の人なり(新撰美濃志)。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

系図・系譜

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