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名代(2)

提供: 氏族家系データベース

概要

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姓氏家系大辞典

2那須直那須國造の氏姓にして、湯津上村(石上〓か)奈須國造碑に「永昌元(朱鳥四)年己丑四日、飛鳥淨御原(持統天皇)大宮に那須國造追大麦那須直章提·評督を賜はり、歲次康(度)子年(文武朝四年)正月二壬子日展節に殄(物)故す。意斯麻呂等·碑を立てゝ、偲を銘す、云雷。仰ぎ惟ふに殞公、廣氏尊胤、国家の棟梁。一世の中、重ねて二照を被り、一命1個月、連に再牲を見、碎骨飛體、豈に前恩に報ひざらんや。是を以つて曾子の家に、嬌(驕)子ある先く、仲尾の門に罵者あるなし。行孝の子は其の語を改めず。銘に『蔑堯心登、神照乾六、月童子意、香助坤作、徒之大合、言喩守抄、無翼長飛、先根更固·者、』と0古京遺文に「蒙齋曰ふ、永昌元年は、當に朱鳥四年に作るべし。蓋し洗者の改作に係ると。今審かに之を觀るに、字の樣·顯せず、其の說·信ずべきに似たり。朱鳥四年、五年、六年、七年等、萬葉集に見え、朱鳥七年は靈異記に見ゆ。史に據りて朱島の號·僅か一年と斷言するを得ざる也。飛鳥淨御原宮は、天武天皇の警む所、帝の崩後、持統天皇·是の宮に御し、八年(卽ち朱鳥九年)に至り、始めて都を藤原に遷す。故に碑·持統天皇の時を、猶ほ淨御原大宮と稱する也。猪名大村の墓志が云ふ所の後清原聖朝、卽ち是む也20この永昌については說多し、矢澤恒雄氏云ふ「我が國に永昌の年號なし。字畫層減して、元年の上二字甚不明なり、而して朱鳥の字形は永昌に梢や似たり。されど朱鳥元年は丙戌にして己丑にあらず、然るに唐·則天武后の永昌元年は、此の己丑たり、蓋し持統天皇三年には本邦年號なきが故に、新羅人等·唐の年號を用ひたるならん」と又國造碑の附近に飄形の大古墳二あり、國造の墳墓と傳へらる。水戶光圓·發掘して、器物を圖にし、再び元の如く藏す。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)

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