コンテンツにスキップ

同意打府

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

天心と マツタヒマツタヒマツタヒ云八後守)、忠裔(石見守)、忠名(遠江守)、忠告(大腦亮)、忠寶(遠江守)、忠誨(遠江守)、忠榮(遠江守)、忠興〓江守)。覽築重勝(越前守)、重忠(丹後守)、重直石三萬二千(丹後守)、英親(市正)、重榮(日向守)、重休(民部少輔)、親純(市正)、親盈(但馬守)、親貞(筑後守)、親賢(駿河守)、親明(志摩守)、親良中務大輔)、親貴(但馬守)、親信。84家紋德川條、及び前各項、又本田條を見よ。又旗本松平三郞次郞は外向三葵を家紋とし、松平下總守家臣松平九十郞も外向三葵を用ひしとぞ。又酒井雅樂頭家臣松平孫三耶、酒井左衞門尉家臣松平權左衞門は一葉奬を家紋とすと云ふ。85在原姓三河賀茂郡松平村の松平太郞左衞門家は、德川時代に至るも猶ほ存して、特別の待遇を受けたり。四百四十二石餘。七郞等見ゆ。87尾張の松平氏春日井郡品野古城(上品野村)は二處あり。晨巳の方なるは、若有隨筆に「享祿二年、〓康君·兵を尾州に出し、大いに戰ひ之に勝ち、品野城を取りて松平内藤正家重に賜ふ」と記し、桶はざま合戰記に「是れより先、尾州科野の城をば、今川より櫻井の松平監物家次に守らしむる處に、尾張方より向城を構へ、日夜·之を攻擊す。城主家次·甚雨つた、敵の油斷を窺ひて、不意に子丑半に、付城へ取掛り、木戶を打破り亂れ入る。尾兵·思も寄らず大に驚き騒ぎ、或は同士打し、或は楊を越えて逃げ出でたリ。因つて尾軍の渠帥竹村孫七郞、磯田金平、戶崎平九郞、瀧山傳三郞をはじめ、五十餘人討死し、其の外悉く向城をすてゝ逃げ去りぬ。義元·家次が軍功を褒めて感狀を給ふ」と見えたり。家重と家次とは父子也。松平系圖には「家康公の曾祖父左京亮信忠君の弟内膳正信定·三河の櫻井〓に住す、其の子內膳正〓定、その子監物忠次」と見え、〓定·家重とも名のり、忠次·家次とも解し、父子こゝの城主なりし也。其の後の城主は安土創委錄に「尾州の士·駿河人に心を寄せ、手を引きければ、知多郡は多く以つて今川へ降參す。永祿元年戊午三月、尾州科野の城に、駿河より松平勘四郞信一を大將として三百餘を籠め置き、尾州より科野の城に付城をして、日夜せり合あり」と見えたり。勘四郞信一は信忠の第松平彥四郞利長の子にて、伊豆守と稱し、後丹波國笹山に隱居す。又同郡守山城は宗長手記に「大永六年、守山松平與一(信定)館と、他は織田條九六一頁、及び前各項、諸松平各條參照又愛知郡梅森北城(梅もり村)は尾張志に『府志に、「民家、及び陸田と爲る」といひ、城主松平三藏なる由云へる如し。此の城址の北につゞきて眺景寺といふ寺あり。此の寺もとは天台宗にて、桃延坊といひしを、天文二年に此處に移して、七年戊戌三月、淨土眞宗とす。其の時の「本願主は當城主松平三藏高照の末子にて道四といへり。其の子尊照より血脈絕えず相承して今に至る。道西は弘治二年丙辰四月朔日、身まかりぬ」と、この寺の記に見えたり。又同所東城(同村の東)杵覽築

(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)

系図・系譜

関連論文

外部リンク