同三(6)
概要
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姓氏家系大辞典
6紀伊至德年中より明德まで山名氏·當國を領し、山名修理(株)大夫義理は名草郡大野城に據る。明德記に「山名修理は大野に有りながら、舍弟草山駿河守に美作勢を指しそへ云々」と。義理は時氏の男、師義の弟にして、山名修理權大夫、彈正少弱たリ。足利義滿に仕屢々戰功ありて、紀伊國に對せらる、元中八年、氏清に黨して叛し、未だ兵を發せずして、氏清既に敗死す。義理·之を悔い嬰々謝謝す。義第二紀州を除かれ、大内義弘に騎士紀州の兵皆義理に背く、義弘·兵一千を帥ゐて、義理を撃たんと欲す。是に於いて義理·子の氏親、時理等六十三人と船に駕して千潟浦を發し由良淡に到り、乃ち謂ふ、我が事復すべからずと。遂に淡路興國寺に入り、氏親、時理等廿七人と薙染、僧となり各々四に別れて去る。その男に義清(修理大夫)、氏親(中務大輔)、時理(五郞)の三人あり。續風土記、名草郡五箇莊黑江村古城跡條に「村の南、山上にあり。國造家の舊記に『築きし年月詳かならず。青侍·西島を遣はし守らしむ』とあり。土人の傳に山名修理太夫義理の弟草山駿河守高義の居城なりといふ」と。又同郡島居浦城跡條に「誰の築きしか詳ならず。南朝記傳に『弘和二年閏正月、山名修理大夫義理·藤白の城を守る』と今も土人·山名の城跡と云ひ傳へたり。五畿内志の文によむた、當城も山名以前は南朝方の城と見ゆ。幡川村禪林寺の文書によれば、『建武中に、淺間入道沙彌覺心、其の子入道忠成、正平年中、宮方·保田山城到會宗兼』とあり。此の人は當城に居城せしならん。徒大內氏當國守114.さま1山者修理大夫表現が居住の地といふ今南村に山名九郎右衛門といふものあり"義理の末葉といふ、義理蟄居の地なるべとと。又「舊家地士山名源之右衞門。家傳に其の祖を宮內大輔といふ、明德頃の人なり。此の時、山名修理大夫義理·此の地に蟄居す。其の子を榮壽丸といふ、宮内大輔·養ふて子にす。子孫·世々當村に住す、家に國宗の太刀を蔵む」と又大野莊中村舊家平次郞は、家傳に曰ふ「其の祖を山名修理大夫義理の孫山名佐太郞理康といふ。修理大夫·貞和の頃、當國守護職にて藤白城に居城す。明德三年、修理大夫の第陸奥守氏〓〓足利將軍に背く。修理大夫は其の兄弟なれば、將軍家より氏〓に一味せんことを疑ひ、書翰を修理大夫に給ふ。右の答書延引の内、氏清滅亡す。將軍家·大内右京大夫義弘をしで修理大夫を討たしむ。雨の森、名草山、日方山の三城肯落城す。則ち藤白の城を燒き、日高郡由良興國寺に落行き剃髮して憎となり、既にして伊勢に逃れ、幸福大夫に寄る修理大夫の子五郞時理·亂を避けて、山麓に生む。取り、每年怡太郞理店將軍家より尋ねあるに因つて山名を改めて石井として、子孫代々當村に住して農民となる」と見ゆ。又那賀郡新田廣芝村舊家地士に山名理左衞門あり。其祖は山名修理大夫義理の孫侍從三助といふものにて、浪人となり、此の地に來り、利兵奮と改名し、田中莊段村を開發す。子孫世々此の地に住すとゼ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)