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同三(1)

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

六三十 夫時氏、子息右衞門佐師氏は、近年御敵に成つて、南方と引合て、兩度まで、都を傾けしかば、將軍の御爲には、上なき御敵なりしかども、内々緣に屬して、兩度の不義·全く將軍の御世を危うめ奉らんとには非ず、云々。近年押へて領知されつる、因幡、伯耆の外、丹波、丹後、美作、五箇國の守護職を充て行はれけれは、元來多年舊功の人々、皆手を空して、時氏父子の榮花·時ならぬ春を得たり」と。又難太平記に「昔山名修理大夫時氏といひしは、明德(後小松)に內野のいくさに討たれし陸奥守(〓氏)が父なり。それが常に申せしは、我が子孫は疑ひなく朝敵に成りぬべし。其の謂れは、我れ建武以來は、當御代の御かげにて人となりぬれば、元弘以往は、たゞ民百姓のごとくにて、上野の山名といふ所より出で侍りしかば、渡世のかなしさも、身の程も知りにき。又は軍の雖儀をも思ひしりにき、云々」と。時氏は尊氏に仕へ、功を立てゝ一族大いに榮ゆ。所謂六分一殿とて、日本六分の一、十一ヶ國を領す。その後、元中七年(明德元年)、時氏の四男氏清·北朝に背き、南朝に降る。明德の變·之れ也。明德記卷上に「去る建武年中に、大御所尊氏將軍御代を召されて、既に十六年に及んで、一天下·悉く武德に歸し、萬民·皆其の化に誇る。兵亂久しく絕えて四海の激浪治まり、國民無事にしT、九島狼煙立去る處に、明德二年辛未)歲、山名陸奧守氏清、同播磨守滿幸、以下一類·悉く同心して、隱謀の企あるに仍つて、不慮に兵亂出來て、都鄙暫く不明、其の濫觴を尋ぬるに、一族山名宮內少輔時然、同右馬頭·故とぞ聞えし。譬へば武恩莫大なるに驕つて、此の一家の人々、每事上意を忽〓にし奉る體なりし中に、山名伊豫守時義、但馬國に在國して、京都の御成敗にも應ぜず、雅意に任せて振舞ひける間、誠に御沙汰有らばやと思召し立たせ給ひける劑、痢にをかされて、伊藤守早世したる上は、力なく思食されけるに、其の遺跡の輩、伊豫守、宮內少輔、右馬頭以下、強ほ過ななののみならず、父祖の惡逆は子孫に酬ゆべき理に任せ、彼等を初週治あるべきにて、其の固々へ討手をぞ下されける。山名の播磨守に、伯書國を追尉して、總て當國と隱岐國とを拜領し、陸奥守は但馬の國を責め題へて其の國の守護職に任ず。云々」と。氏〓の妻は左中將廉原保修の女、烈婦として名あり。元中九(明德三)年、亂平ぐ。明德記下卷に「明德三年壬申正月四日、内々御評定有りて、今度の闘國共、諸大名に任せられける。畠山右衞門佐基國には山城國、細川右京大夫賴元には丹波國、一色右馬頭滿範には丹後國、赤松上總介義則には美作國、大内權大夫義弘には和泉、紀伊國兩國を拜領し、山名宮内少輔時昭には但馬國、右馬頭には伯耆の國、佐々木治部少輔高詮には隱岐國、出雲二ヶ國を給し眉目を施す事、只先業の譽を殘すのみならず、忠賞の甚しき事·面目の至リ比類なし。人皆勇あへり」とその後、歷永記に「去る程に山名陸奧守の嫡子宮內も、其の時を得たりと、是れも大内に同心して丹波國宮田に打入り、其れより都へ貴入りて、京中を燒拂ひ、八幡の御陣に懸りて、亡父の本意を遂ぐべしとて、三百餘騎にてをいつけに打越る。小番(一に轉)衆二頭·兩陣を張つて待ち懸けたり。扶野源左衛門·先にて佐々木の小戰小小勢なり自命を捨てゝける間、源左衞門を始として、四十餘人討取る。宮田は元より一家の事也。敵には何をかさたべきとて、大館が陣に懸りけるに、宮の上野は大將宮田を討取らんとて、敵の中へは(わ)りて入り、落合者七八人を討取つて、敵二十餘騎と懸合ひて、散々に戰て敵餘多に手頁せて、終にそこにて討死す」とその他の氏人は多く幕軍に屬して堺城を攻む。「まくりつ、まくられつ、卯剋より戌の刻迄、寸陣もなく職ける處に、山名右兵衞佐入道、同民部少輔を始として、門五十餘騎·管領の手に入換へて散々に戰ふ。城中より杉豐後、同備中、野上豐前を始として、究竟の兵五百餘騎切つて出で、向ふ敵を追散十處に、山名民部少輔兄弟二人は、一足も退かず、敵の中へえいやの聲を上げて切て入る。是を見て一門五百餘騎·民部少輔を討たすなと續いて切つて入りければ、敵身形·亂れ逢ふ。先陣·討たれぬれば、後陣の勢、彼の死骸共の上を乘り越へ々々、討ちつ討たれつ、責め戰ひける」と。大内系圖に(義弘の女·山名国政守氏室一ノ見成り云々、一季衆·山名刑小炒文明十二三年比、加殿(政〓)。國持外樣素·山名彈正少强、山名相摸守、山名兵部少輔、山名彈正忠。外樣衆·山名伊豆守、山名宮田五郞。御供衆·山名宮内少輔、山名七郞」等見ゆ。又文安年中御番帳に「外樣衆(次等不同)·山名草山奥次郞。四戰·山名右衞門督入道諸大名衆、御相伴衆·山名右衞門督入世外樣大名衆·山名固幡守護、山名相摸守。四番·山外中務少輔、同三郞」等見ゆ。又康正道內裏段錢引付に「三十貫文·山名相摸守殿、御沙汰分。三十貫文·山名奥次郞殿御要脚、萬疋之内段錢。二十貫文·山名與次郞殿、御沙汰、且卽要脚內。十五貫文·山名相摸守殿、御要脚之内」と。又應仁記に「山名入道·嫡孫少弱政豐、同兵部大輔政清、同相摸守〓之、攝津守永椿、同五郞左馬助豐光、五郞宗幸、宮田民部少輔〓實、宮內少輔豐之、上記セ郞政之、以上一味大名三十餘人·花の御所を打圍んで訴訟を申さる」と。風雲急となるや「山名金吾も勞の多少を知らんと、着到をこそ付けにけれ。先づ嘉吉の亂に由名氏大功あり。喜吉記に「山名右衞門督持豐、同修理大夫解高、同相摂守」等見え、「山名金吾が早速大功を賞し、播磨國を下され、同修理大夫·美作國を拜領し、相摸守·備前國を拜領しけれは、山名一家の人に肩を双ぶる人なくぞ見へし」と。又「享德三年甲戌、細川成之·赤松彥次郞祐之を立てゝ、彥五郞則尙の後と爲す。山名特豐·之を喞ち、持豐·但馬國に還る。山名金吾·本領のその上に、滿ををちちし大切にて、一家として、備前、播磨、美作の三ヶ國を領し、武勇又世を蓋ひしかば、これに對揚すべき大名もなく、管領もかれが心をとり玉ふ。橋慢の氣·物每に出でしかば、將軍これを疎んじ玉ふ」と。その宗家は四職(侍所別當)の一にして、同族·皆重職に在り。永享以來御番帳に「御相伴衆·山名右衞門督入道常誤、山名修理入道常勝、山名彈正少粥持豐、山名上總介〓高一番衆·山名中務大輔脳貴、山名播磨守滿政、山名七 。畠山殿え御ヤマナヤマナヤマナ〓 ヤマナヤマナヤマナ吉祥山名入道の勢は、但馬、播磨、備後、井に諸國被官、合せて三萬餘騎、同名相州·伯耆、備前の五千餘騎、因幡守護·三千餘騎。同修理大夫·美作、石見の勢を率して三千餘騎。他家の人々には、武衞義廉·越前、尾張、遠江衆·一萬餘騎。畠山右奮門佐義就·大和、河内、熊野の衆を催し七千餘騎。同修理大夫義純·能登勞を將ゐて三千餘騎一色左京大夫義直·丹後、伊勢、土佐衆·五千餘騎。土岐左京太夫成賴·美濃衆八千餘騎。六角四郞高賴·近江衆五千餘騎。大内新介政弘·周防、長門、豐前、筑前、安藝、石見の勢二萬餘騎。伊豫河野二千餘騎。此の外、諸國の合力一萬餘騎、惣べて都合十一萬六千餘騎としるしける」と。山名氏の全盛時代也。又「相摸守一門山名(石)常陸守」、山名孫四郞等見え、又應仁略記に「山名一家には、金吾の嫡孫彈正少弼政豊、同兵部大輔政〓、同相撲守〓之、攝津守入道永椿、左馬助豐光、五郞宗幸、宮田民部少輔〓實、宮內少輔豐之、上總七耶政之、此の人々を先として、一味の大名三十餘人とぞ聞えし」と。又應仁私記に山名伊豆守〓高、山名永椿等見ゆ。驕つて海東諸國記に「山名殿は國王殿の四に居る。今天皇長條三年己卯(天順三年)、始めて使を遣はして來朝し、書して、但、〓、伯、作、四、備の前後藝、石、九州總太守山名霜臺源朝臣〓豐と稱す。〓豐·出家す、法名宗全、方に細川と相持す。國王に異母弟あり、甞つて出家して淨土院と號す。國王に關なし、命じて俗に還し、着に以つて嗣と爲し、今出川殿と號す。一年、國王に子あり、今出川に語つて曰ふ、汝必ず之を我が子に傳へよと。今出川·誓つて之を許す。山名·既に細川と仇たり。細川·國王の令を挾み、山名も亦今出川を推して敵と爲る。國王今年三十七歲、國王の子·年七歲。今出川殿·年三十二歲なり矣。〓豐の二子義安等は國王に侍して、敢へて歸らず、〓豐·其の長義安·尋いで死す。義安の子·山名の所に在り、山名·將に以つて嗣と爲す。文明元年己丑、義安·使を遣はして來朝し、書して丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、備前、備後、八箇州の總太守、山名彈正少弼源朝臣義安と稱す。父山名左金吾源朝臣宗全の躍を繼ぐ。宗全の書も亦日ふ、我が所領八箇州は悉く義安に與ふと。二年廣寅、宗全·又使を遣はして來朝し、書して、因伯丹三州太守山名少弱源〓豐と稱す」とoその後、長享元年常德院殿江州御動座在陣業に「諸大名·山名又次郞、御供衆·山名小次郎、外樣衆·山名相摸五郞、山名宮内六郞」を載せ、又永祿六年諸役人附に「光源院御代當參衆、外樣詰衆以下·山名與五郞、外樣大名在國衆·山名次郞義祐(改名左京太夫)」等を擧げ、又安四軍策に、山名入道、山名但馬守、山名藤三比〓山名宮內少輔忠興等あり。

(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)

系図・系譜

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