可美眞
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
むらえ濃を經て海道筋に出た事は、明白であら50なほ且此等五國造の祖を國造本紀が出雲色大臣、伊香色雄、大新川等、主として近江國出生、又は住居したと傳へられる人の後裔として居るので、一層その感を深うするのである。而して、此の氏族が近江國を本居として居たのは安寧朝から崇神朝迄の事だから、當地方に發展したのも、恐くはその時代が下つても、餘り遠からぬ時代と思ふ」と後世なるは、三河妙源寺文書に「寄進し奉る三河國平田庄桑子左近五郞屋敷、井に伍の事。右畠に於いては太子堂職地たるの上は子々孫々主り、妨を成すべからず。仍りて寄進し奉る所、件の如し。建武三年十二月五日、物部熙氏花押」とaその他は次項を見よ。134神家前項末の熈氏は此の流ならん。細川管領配下の名族にして、明德三年(元中九年)八月二十八日の相國寺供養に「細川賴元家臣·物部九郎成基」を載せ、又隆涼軒日録、延德二年七月三日條に「丹波に於いて大合戰あり、物部豐前守を大將と爲して位田城を攻む」とa其の後明二二十三日、特軍義植·河内國手味饒田味饒田出雲醜大臣-大木食四世孫知波夜(三國圖遠離)彥湯支-出石心大臣-大矢口宿禰大綜杵-伊香色雄武諸隅-多運麻印葉(久等國造產)印刷足尼大新河片堅石(驗河圖薩)大小市久留直接道) -十市根-膽昨宿國-竹古已止直の外伝三穂應用頂聽取得思薯三日露ち直印岐美(週五國道、:その他は遠江以下各條參照。又氏人は第十二項を見よ。136相摸の物部氏第十七項を見よ。後世なるは、鎌倉長谷寺文永元年七月十五日の鐘銘に「住持眞光、勸進沙門淨佛、大工物部季長」を載せ、をた大住郡日向山畫山寺鐘銘に「曆應三年大歳庚辰十二月十五日、甲子、大工大和權守物部光連、大勸進云々」とこれより前、餘綾郡高麗寺山高麗權現弘安十一年卯月廿八日の鐘銘に一大工大和懷守物部國光」見ゆ。又氏人は第137武のの郡第十七項、及び自百二十項參照。又抽著武藏に安閑朝以後、武蔵國道の事は暫く物に見えぬ。熊らく笠原直使主の子孫が、その職を龍水して居たのであらう。それから凡そ五六十年程經つた推古朝に、物部連兄麿と云ふ人がある。太子傳曆に「會人物部連兄磨·人となり道心あり、常に以て齋食、後に優婆塞と爲りて常に左右に侍す。發巳年、武藏国造を賜ふ」と載つて居るので、此頃武藏國造の系統が變り、出雲臣族から物部氏族に移つたのであらうと云ふ人がある。しかし私は、これもやはり出雲族で、國造家の一族と考へて居る。出雲臣族武藏國造の一族に物部氏のある事は神護景雲二年紀に武藏國入間郡の人物部直廣成が入間宿禰(この氏の國造族なる事は後に云ふ)を賜はつて居る事などで容易く說明が出來る。凡そ當時の舍人は多く地方豪族の子弟から採用された。それは丁度地方豪族の娘が采女となるのに似て居る。此の兄廣も武蔵から上京して太子の會人となつたのであるらしいしかし此處に一つの疑問がある、それは兄廣のカバネが太子傳曆に連とあつて、この武蔵國道の一族なる物部直とはカバネが違つて居る事である。一體物部連は全國の物部を總領する伴造で、武蔵の物部直は武藏一國の物部のみを支配して居た、同じく物部團體の首領でも廣狹の差があり、又系統がまるで違ふ。そ、一で物部連と云ふものを物部直と一緒には出來ぬ、けれど此の兄麿が特に武蔵國造に任ぜられたのから考へると、物部連の系統ではなく、どうしても物部直、つまリ出雲臣族武蔵國造家の一族と思はれるではないか、さう云ふ風に考へると、:の連とあるのが直の誤りか、又は太子の舍人と云ふので、直姓から特に連姓を賜はつたのかも知れない、けれど後世武藏に物部連がなく物部直のみ存在するので、後說は採用出來ぬ此の連は直の誤りてあらうと云はねばならぬ。此の氏も前の笠原直と同樣、武蔵國造の一族だが、やはり支流である。前に本流が絕えたので一族笠原直が繼ぎ、更に今度又此の物部直が太子のお隆で國造職を得た、此の國遣家は斯樣に度々氏が變つで居る、けれど、もとを探ぐれば皆出雲臣族なる兄多毛比命の後裔に外ならぬ。此の後又變つて同族大部直に國造職が移る。それはいつ頃からかわからぬが、恐らく中古になつてゞあらう。斯く此氏は武蔵國造の一族だが、此の國の物部を支配して居たので物部を氏とした譯である。その直姓なのは國造家武蔵直の分家なるが故である事は今更云ふ迄もない。而して此氏は主として入間郡に住んで居たらしい。延喜式、入間郡の部に物部天神社と云ふ社が載つて居る、それが此の氏の奉仕した神社である。此の宮は、その名稱から物部部民の神社である事は明白だが、天神社とある故を以つて、物部の總領的伴造物部連の祖神天神饒速日命を奉祀したものだと一般に說明されて居たが、私はさうでなからうと思ふ。式帳を調査するに、天神社と云ふのが、此の物部天神社の外、まだ澤山此の國にある。即ち多磨郡條に布多天神社、大麻止乃豆乃天神社、阿豆佐味天神社、及び穴澤天神社などそれだが、此等は總べて同一律に解釋せねばならないではないか、よつて私は考へた、この天神社と云ふのは式帳入間郡に國渭地祇神社とある地祇神社に對する語で、一種の社格とモノノヽモノノベモノノヘ츠三 モノノヘモノノヘモノノヘむら八見るべきものだと。天神といふのを一種の社格のやうに取扱つて居るのは二三の國帳に見える。先づ尾張國神名帳には國内神社を「大名神、名神、天神、地神」の四階級に分ち、參河國內神明名帳は「大明神、明朝、天神」の三種類にして居るが、これは天神級までの神社を載せたので、地神は省いたとも見られよう。此等はその神階から考へて、明かに神社の階級を表はしたものだとわかる。私は此の國の天神と云ふのは、此等國帳に見ゆる天神と同一なもので、それが偶々式帳に表はれたものだらうと思ふ。しかし或は紀伊國神名帳に見ゆる天神、地紙と同一かも知れぬ。此の帳は全體の神社を官知神と未官知神との二つとし、更に天神、地紙の二つに小譯けして居る。此の天神社、地祇社に關しては別に述べるが、どちらにしても祭神を表はしたものではない。そこで此の物部天神社の天神も同樣祭神を表はすとは見られぬ。偶然に物部と天神と重なつて、物部連祖天神饒速日命と云ふのと暗合的に類似して居るばかりである。要するに物部天神社は物部速関係がない。從つて此の神社があるからと云つて、物部連が住んで居た證據にはならない。唯物部の部の神と云へる丈である。この物部天神社は今小手差村大字北野にあつて北野天神社とも云ふ、物部天神だが後世菅原道眞(天滿天神)の崇敬が流行するやうになり、その名稱の同一な事かb、いつの間にか北野天神とか、北野宮とが云つて道眞を祀るやうになつた。(武藏物部直の祖神は天穗日命で、菅原天神の大祖先と一致して居るのも暗合に過ぎない)。既に應永四年の文書に北野宮と見えるので、それ以前からの事だとわかる。德川時代には社領五十石を持ち、猶は前田侯が管原氏を稱して居る関係から大いに崇敬した。天正十八年前田利家は社殿を造營して居る。それ等から、かなり榮えた神社である事がわからう。しかし物部天神は此の社でなく、川越の三芳野天神社だと云ふ人もある、この社も德川時代二十石の朱印を持ち、且つ古い社であるらしい。此の物部直は四角井系圖に「字那毘足尼の子筑廣·物部直祖」と見え、「筑鷹の弟八背直に膳大部直祖一とある。つまり筑物部連が住唯物部の部麿が武蔵の物部を支配する事となつたので物部直を稱し、第八背直は膳大伴部となつたので膳大伴直姓を負うたのである。系圖の此等の部分はうそではなさ相に思ふ。斯樣に巧な覺系圖は一寸つくれぬ故である。此の兩氏とも武藏直の支流だが、後に前後して國造職を襲ふのである〇物部直の方が入間郡に雄を言つて居たのに對し、大部直の方は足立郡に據つて居た。けれど奈良朝になると後者は遙に前者より優勢であつて、後には國名を負うて武蔵宿禰と云つて居る。だが物部直も神護最雲二年七月紀に武蔵國入間郡人正六位下動五等物部直廣成等六人が姓を入間宿禰と賜ふたとあるから、相當な勢力を持つて居たと云はねばならぬ。入間氏はその郡名を氏として居る點から云つても、又田舍者でありながら、宿禰の如き高級の姓を賜はつて居る點から云つても、此の郡内の最强族であつた事が疑へない。姓氏錄には左京に貫し、「入間宿禰は天穗日命十七世孫天日古曾乃日(一本己呂)命の後也」と載せて居る。天日古曾乃命は、四角井系圖には天日古曾乃己呂會とあつて、兄多モ比の曾祖父にして居るが、そは雪ほ此の命は姓氏録和泉神別に一山直、天穗日命十七世孫日古(一本吉)言(旦乃己名(一本呂)命の後也」と見える。此の山直も武蔵國造家から分家したものであら5o斯樣に姓氏錄に載つて居るのは、此の入間氏が京師にも宅があり、京官になる資格があつたからで特に優勢なるを表はして居るのである。猶ほ入間郡内には、物部天神社の外に此の氏族に緣故ある社が多い。先づ出雲伊波比神社、これは物部直や入間宿禰など此の邊に住んで居た出雲臣族が其の祖神を奉祀したもので、社傳に祭神を天穗日命としてるのは當らずとしても遠くはない。男衾郡にも出雲乃伊波比神社がある。同じくその地方の此の氏族が奉祀した宮と思ふ。伊波比は祝だから、出雪伊波比神社とは出雲臣族の人が祝となつて奉仕する神社の意味であらう。(横見郡に伊波比神社がある、猶ほ荏原郡に磐井神社、これも磐井は伊波比の訛であらうか)。次に中氷川神社、これは云ふ迄もなく、武藏國造家の氏神氷川神社の分社で、此の氏族が此の地方に分裂した時勸請したか、或は物部直が國道となつた時、此の地に氷川神社を熟語して、国の戦を執つたのかも知れぬ。此社は今の三箇嶋村の長宮大明神がそれだとも、氷川村中氷川神社だとも云ふ。以上三社の内、物部天神社は物部々民の神で、出雲伊波比神社は物部直など此の地の出雲氏が神職となつた社、中氷川神社は本家武藏直の氏神の分社であつて、總べて此の氏に關係が深い。さて物部直の本家、後の入間宿禰の住居した地は和名抄に見ゆる郡家郷であらう。それは此の氏の上古に於ける勢方を考へ、又入間なる郡名を氏として居る事から、此の氏が此の郡の最强族と思はれる。從つて中古の初めに於いて、此の郡の大小領は此の氏より任じられたと思ふからである。此の〓は現今入間川村と推定されて居준と又大宮氷川神社々家、岩井(武諸隅-物部多運麻-宅勢)東角井、四角井(物部直姓)は何れも物部氏の族と稱し、後世角井主膳物部重臣(武藏介菅原正好の裔)等見ゆ。各條參照。138安房の物部氏安房郡國分寺弘安九年モノノヘに博守物部四光」と見ゆ139下經物部氏太平記卷三十四に愛に結城が若黨に物部次郡郡司とて、世に勝れたる兵四人あり」と古きは第十九項を見よ。140陸奥の物部氏第二十六項參照。下つて陸奥話記に物部長賴、又「陸奥大目散位物部惟(一に經)正」等見ゆ。その他、モノ、モノキ、モノエ等の條參照。141源姓これも奧州にて、陸中和賀郡種内權現堂應永廿二年棟札に「別當物部仲將源義實」を載せ、又延基(德)二年棟札に「別當源蔵人〓實」、永正五年棟札に「別當源〓實、同物部兼實」等を擧ぐ。安俵、小原等の條參照。142近江の物部氏第廿一、百二十二項を見よ。又明匠略傳、慈惠大師傳に「良源は近江國淺井郡の人也。其の母は物部氏」と載せ、また元亨繹書卷四に「釋良源、母は物部氏」など見ゆ。143但馬の物部氏第三十五項を見よ。又後世朝來郡の豪族にありて、太田文に「物部上庄·領家八條左少將、拾六町五反六拾步、地頭左近藏人云云。同下庄八町·本院御領、領家吉田大納言家、
(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)