及今(3)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
3氏人第一項蜂屋冠者賴俊は曾我記の富士野の狩場にありし國々の諸侍をいヘる條に「美農國の住人には、土岐三郞、大八遠山二郞、蜂屋冠者」としるし、承久記の尾張河の合戰、京方敗軍の條に「大炊の渡りの京方破れ、大勢巳に打入ると申しければ、鴨沼の渡りに向ひたりける美濃目代帶刀左衞門尉·口惜しき事哉と思ひて、五十騎計りにて馳來る中に隔たり、七八度が程、取つて返し〓〓戰ひけれど6.其れも終には叶ふべくも無かりければ引退く。美濃國住人條屋冠者も引退きけるが、信濃國住人伊豆次郎に、組み落されて討たれけり」と見ゆ。次に第二項隱岐孫太郞定親は、名細記の原氏系圖に「土岐光貞の男定親·濃州蜂屋に住す」と見え、土岐系圖に「讓岐守光定の五男隱岐孫太郞定親錢圓と號す。毎は北條相摸守平貞時の女也。嘉元三年、北條時村合戰に討死」と見えたり。蜂屋近江守貞經は、土岐系圖に「隱岐定親の長男貞經·蜂屋兵衞尉、近江守、賀茂郡蜂屋に住す」と見えたり。又團太曆の文和二年四月十日の記に尾州に於いて、守護代土岐が家人等合戦、件の黨類原、峰屋等也、云々」と見えたるは、この氏人にて、蜂屋近江守貞秀は、土岐系圖に貞經の長男なるよし見え、蜂屋修理大夫光經は貞經の三男にて、尾張の幡頭城主なるよししるせり。次に蜂屋兵部少輔光房は、光經の男にて、兵庫とも名のる。また太平記三十二に蜂屋將監、三十四に「厚東駿河守、同峰屋近江守、同左馬助義行」等、皆此の族人也。下りて永藤記に蜂屋氏、また峰屋兵庫頭賴隆(出羽守)あり、土岐家臣、後齋藤氏に從ひ、永祿七年信長に降る。織田眞記、天正二年七月に蜂屋賴隆、安四軍策に蜂屋兵庫、氏家左京亮等見え、天正十年六月に至り、三萬石を領し、秀吉に從ふ(野史)と云ふ。又加茂郡蜂屋堂洞城(蜂屋村堂洞)は、享祿年間、土岐の一族蜂屋兵庫頭賴隆住し、永祿年間、齋藤龍のの岸信周、及び其の子信氏·住すなど見ゆ。又尾張志に「春日井郡久保堡は天正十二年、秀吉の命にて蜂屋出羽守賴隆·之を守る」とあり。猶ほ高野瀬條參照。又豊鑑に蜂屋伯耆(三七信孝に從ふ)を載せ、また蜂屋大膳大夫など見ゆ。寛政系譜に、此の末流と稱するもの十三家を載せたり。家紋丸に桔梗、鯉文字。「蜂屋近江守貞經の齋、兵庫頭善額(新九郞)-三十四に同左馬助逸江守善康-兵庫頭善兼(九郞)-遠江守善仲(將軍義澄、義晴に仕ふ〕-兵庫助善政(義昭臣、永祿七年死)-兵部左衞門善範(九耶次郞。今川義元、氏眞、後に北條氏眞に仕ふ。天正十八年小田原陣中に死す)-九郞左衞門善成(家ににふふー九郞次郞善遠-長吉善次、弟小平次善休」とあり。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第5巻』磯部甲陽堂(1944年)4553頁)