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又小

提供: 氏族家系データベース

概要

関連文献

姓氏家系大辞典

布瀨原村條に舘達·相傳ふ、元龜天正じめて、渡部忠兵衛直忠·住す」と見え、又新宮村熊野宮種札に渡部中兵衞、又澁谷村「溫泉神社神職渡部衞門、先祖は會津郡楢原組成岡村の領主渡部國中陸明と云ふ者の十世の孫なり。父は嘉右衞門陸緣と云ひ、衞門·明和中當社の神職となりき」と。又慶長六年文書に「渡部一類云々」と。32河沼新編風土記に「古坂下村舘迷は渡部中務と云ふ者住し、天正の初め、荒井丹波某住し、同十年の頃は伊藤勘解由某住せし」と0又「御覆神社神職渡部丹渡寛文中河内經長と云ふ者、當社の神職となり、相續いて今に至る。經長は今の丹波政晴四代の祖なり」と見ゆ。又「窰倉村舘述は渡部監物某·住せし」と云ひ、茅本村舘跡は天正の頃、渡邊中孫(新)某·住せり」と云ふ。又生江氏四家老の一に渡部氏·見ゆ。33大沼高田村伊佐須美神社「神職渡邊伊藤·其の先、渡邊四郞光房は内舎人從六位下渡邊網が八世の裔にて、鳥羽院北面の侍なり。光房が次男大和惟治·當國に來り、其の孫長門賴綱·建曆の頃、此の社の顧宜となる。六世の孫を近江長と云ふ、初め五郞と稱す。此の時、神職五員の內に入る。本宮八幡御正體に渡邊五郞源長とあるは、此の近江が事なり。近江が八世の係大藏大輔則綱·始めて長官に任じ、則綱九世の孫を渡邊伊據惟一則と云ふ、今の長官なり。文明十八年頃、神職渡邊大和某が二子萬壽丸·夙慧にて、葦名盛高に貫され、後には渡邊主殿光綱と號し、河沼郡台村にて三十貫文の地を領せり」と。當社·昔は神主、宮司、檢校より巳下三十二員の神職ありしも、德川時代は、長官の外、十三人なりと。又大登村舘述は「天正中まで、山内氏の臣渡邊長門綱孝と云ふ者住す。此の村の名主十郎右衞門と云ふ者·彼が子孫なりとて、今舘迹に住す」と見え、「舊家十郞右衞門。祖先は渡部長門綱孝とて、代々山内の重臣にして、大登、桑原、河井の三村を領す。伊達政宗·會津に亂入し、大波玄蕃をして山内氏勝を攻むるとき、綱孝·左約に據つて能く防ぎ、大波·歷しく攻むれども破ること能はず、氏勝漂泊いぬ、綱孝仕官を求めず、家に終る。綱孝が嫡孫十郞左衞門欄秦と云ふ者·

(太田亮『姓氏家系大辞典 第6巻』磯部甲陽堂(1944年)5678頁)

系図・系譜

関連論文

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