去來(8)
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
8世田谷家武藏國荏原郡世田谷城(せ田谷新宿)は吉良義胤の六代治部大輔治吉良式部源義房7遠江の吉良氏太平記卷九に「(元弘三 家·始めて築く。吉良氏の家譜に「吉良治家-賴治-賴氏-賴高-政正-成高銀倉公方持氏の時、世田ヶ谷を賜はる。リて世田ケ谷殿と云ふ。)-賴康-氏朝-頼久」とあり。而して新編風土記に?の所は、昔吉良家居城ありし地にて、天文弘治の頃、家風さかんなりし時は、世に吉良の御所と稱せり。されば今も里人は御所跡とてあがめおけり。吉良系圖に治部大輔治家·はじめて武州世田ヶ谷により、後上州飽問に移リ住せりと。衾村東光寺の古文書にも、治家·この寺を建立せしよしみゆれば、治家が世に、此處に住みはじめしは疑ふべくもあらず。;人應永二十四年四月十日逝けりといふ。或は延元元年十一月七日ともいへり。そののちの事蹟はつまびらかならず。治家より六代ののち左京亮成高は、この城におりしよし系圖にみゆ、これ天文十五年に逝去せし人なり。その子左兵衞佐頼康、其の子氏朝に及ぶまで、この城にありしとみゆ、これ天正の頃のことなるべし。其の後世も移り變りて、御入國の時廢せられしかば、長く此の地を伊那家に賜ひ、それより後は、林となりて樹木のみ生ひしげり、今に至りても尙然リ、」と見ゆ。又世田谷私記に「荏原郡菅刈莊世田谷〓は、往古吉良家の領地なり。抑も吉良と解するは足利家の嫡流にて、其の頃何ほどの貫高にや、今に至りてわかり難し。土俗の言傳へには、十八萬石といへど非なり。北條氏綱の時に、世田谷賴康卿をも聟とし、彌々關東に猛威を振ひけるが、天正十八年亡び、此の時世田谷氏朝は上總國生實に遁れ給ひけり」とこ世田谷八幡宮棟札に、天文十五年源頼貞とあるは賴康の前名にやと云ふ。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』磯部甲陽堂(1943年)1151頁)