南
概要
関連文献
姓氏家系大辞典
and ニツタ次に義氏の男義高は新田左馬頭と稱して馬ヶ岳に居城し、豐前國京都郡吉田郷久保庄、宇佐郡辛島等、八千貫の地を領す。里見式部少輔義有と共に山口へ行き、永事三年正月十一日、下毛郡大家匂金の庄にて自殺す。後年、中津城下に於て神と崇め、今猶ほ存在すとぞ。その長男義通は新田左京大夫、永享三年正月十一日馬ヶ岳にて自盡す。次男竹王丸も兄と共に死し、三男吉丸は、同日舟田入道玄如に議られて、下毛郡中津川に至リ、重松某に頼ると傳へらる。義基の弟二郎朝兼は左近將監、新井氏の組にして、白石等出づ。アラヰ、ニヰ等の條を見よ。又朝兼の弟は備前守、入道して覺雲齋と號す。土佐守宗重と同人かと云ふ。47佐田流筑前筑後に在り。その系圖に據るに、延元二年三月六日、越前金崎に於いて悲壯なる最後を遂げし新田義顯の男義一の裔と稱す。傳へ云ふ、義一は父義顯·自殺の時、懷內にあり。母は菊池七郞武基の女にして、此の時、尼となりて法名を露風と號し、上野に下り、新田四郞義繁を頼み、此所にて義一を生む、り、義光へは新田を用ひさせられたりと。その男義最は新田太郎、母は脇屋義久の女、妻は菊池左馬助武信が女。古文書に「筑後國竹野郡山門郡、此の内、千三百町を以つて、御領知に相加へらるべく候、恐々謹言。三月九日、豐前守政則判、義景參る」と。此の狀·疑ふべし。その妹は麥生氏、笠良木氏等に嫁す。次に義景の養子詮氏は新田河内守、實は新田備前守氏久の子也。久明四年三月上洛す。氏久は新田四郞義繁が五代の孫なリ。その妻は義景の實子也。次に詮氏の男義照は初め源太郞、後に刑部大輔と云ふ。妻は大友豐後守政親の女、大內、大友、筑後生葉郡大聖寺合戰の時、戰死す、年七十三。長松院雲岩と號す。その妹は隈部上總介忠直の妻、此の緣を以つて、善良·隈部家に寄客たり、家臣に非ずと。次に義照の男鎭景は、初め氏景、新田違江守と稱す。母は家女、初め里見左衞門太夫氏範の義子たりしが、氏範の死後、實子里見丹波守成長と不和也。故に鎭景·實家を立て、又山名伊豫守賴氏の家を繼げる時、山名兵部大輔とも稱せり。後年、新田氏に改めて、大友に屬す。そ四五〇二時に延元二年七月廿六日也。翌日母死し、また義繁は左馬頭基氏に生捕れしが、後に世良田莊を領す。其の後、基氏·芳賀禪可と合戰の時戰死す。時に年二十二なりと。義一の男義光は、新田上總介と稱す。母は基氏の臣·忍三郞常政の女、基氏の侍女なり。家人江島別當·上杉民部少輔と不和の事有りて、江島·密に新田義宗か、脇屋義治に與して討たんと謀ると云へども、事成らず。此の時、義光の所領も沒收せらる。然れども成長の後、義光に至りては子細なしとて、本領を復せらるべしと有りしかども、在鎌倉の時、基氏卒せし故に、其の事相違せり。是を以つて里見を賴みて四國に下る。里見は元來義貞の臣なり。此の時より四國の武士となり、兩筑の間に居住し、應永六年三月十五日卒すとぞ。義明の男義明は新田左馬助と稱す。母は菊池肥後守武政の養女、實は字佐八郞太夫政規の女也。父死去の時七歲也。脇屋左衞門義久の子となりしかども、本家新田氏の斷絕を本意なく思ひ、高山十郞惟秀の子は、義久の外孫なれば、其の血脈を以つて、經氏を養ひて脇屋の家を讓の子鎭實は新田掃部と稱す、一に平右衞門に作る。大友に仕へ、大友の衰微後、立花宗茂に仕へて江上に戰死す。子孫は谷川、佐田等の條を見よ。又鎭實の弟に、源兵衞、其の弟善良は隈部筑後と稱し、柳川にて自害す。又鎭景の弟義政は新田太郞次郞、後肥後守と稱し、その弟義尙は新田左馬助と云ひ、父兄と共に戰死す、時に年十七と。又義政の男筑後は近衞關白信基公に仕へ、伊藤氏を賜はりて伊藤左兵衞と改む(將士軍談)。第四十五項と同流也、參照せよ。そや佐田條を見よ。48隈部流前項氏と同族にして、一に新田義貞の裔·右衞門督義照·北國を落ち、筑後國生葉郡に來住し、後年大友家に從屬す。其の子岩千代丸·大友義鎭に仕へ、其の季子善良法師·當國善導寺に在住せしが、還俗して氏を隈部と改め、筑後入道善良と號し、武勇絕倫也。竹野郡石垣村新田の城、同郡南鳥飼村の城は、共に此の新田氏の築く所なりと。石垣村新田城は新田四郞忠常の居城と傳へらるれど(集記)、恐らく新田善良が祖先の居所ならんと(國史)。開基帳に付野郡高倉村八幡、床島村八幡は、並に新田義信の建立也」と又島飼村城も新田義信の所築と傳へらる。49酒井流義貞の三男義宗の裔と稱す。義英に至り、同族三十餘人と下向すと傳ふ。酒井條に詳か也。50肥後の新田氏太平記卷三十三、菊池合戰條に「新田一族には岩松相摸守、瀨良田大膳大夫、田中彈正大弼、桃井左京亮、江田丹波守、山名因幡守、堀口三郞、里見十郞」と0 51薩摩の新田氏薩摩郡東水引村に新田神社ありて適々杵命を祀る。新田八幡宮の事にて、祠官の事は、執印、權執印、宮里等の條を見よ。52光田流義貞の孫貞方に文殊丸と稱する遺子ありて、長じて光田小太郞貞家と稱すとぞ。羽田、及び光田條を見よ。53雜載その他、攝津、山城、播磨、出重、備前、岩磐、因伯等に此の氏·尠からず。
(太田亮『姓氏家系大辞典 第4巻』磯部甲陽堂(1944年)387頁)